『身体のリアル』(押井守、最上和子)についてのすべてのヨミメモ

身体のリアル
押井 守、最上 和子
出版社: KADOKAWA   出版日: 2017-10-04   ページ数: 352

そうですね、表現の側面もあるというか、持たせたい気持ちはどこかにあるんですけど、というのは芸能なので、芸能者というのは自分の身をさらして人に見てもらうという側面もあるじゃないですか。そういうものとしての側面はやっぱり欲しいなというのはあるんだけど、ほかの絵を描くとか音楽をやるとかいうのと同じにはやっぱり考えられないというのがあって、結構ここにたどり着くまでにすごい苦労したんですよ。というのは身体表現をやっている人って舞台が前提なんですよ。公演をやるというのが前提。公演のために稽古をする。今度こういう作品を作って舞台にかけるから、こういう稽古をするとか、お客さんが来て見てということがセットになってて普段の稽古をする。でも舞踏をやっていくと順番が逆だなというふうにだんだん思うようになっていって、最初に公演ありきじゃなくて最初に身体ありきで。最初に身体ありきの部分が武道にちょっと似てる。発表しようがしまいが、武道の人って死ぬまでお稽古するじゃない。
人生の一部というか。それと同じで公演をやろうがやるまいが、舞踏家になろうがなるまいが、身体に取り組むという一本の太い線が最初にあって、その枝のひとつが公演というとらえ方にだんだん変わってきたんですよ。それまでは公演をやっても達成感がないというか、楽しくなかった。なんで楽しくないかをわかるまでにすごく時間がかかっちゃって。「なんでこんなに満たされないんだろう」って。よく「舞台に魔物が住んでいる」とか「お客さんの拍手をもらうのが生きがいです」とかいろいろ言うんだけど、私はそういうのがなかった。「スタンディングオベーションが欲しい」とか全然思ってないし、されれば悪い気はしないし嬉しいけど、そのためにやろうという気はまったくない。というふうにだんだん移行してきて。それはそれで別の悩みがあるんですよ。というのは公演を目指していないと、稽古場をやっても生徒さんが来ないというね(笑)。みなさんそれがあるから来てるという、功利的と言えば功利的なんだけど、それがないと本当に身体をやりたい人しか来ないんですよ。
だけどこれは自己矛盾なんですよ。個人には引き受けられないことを個人でやるしかないという状態にずっと私は置かれているわけ。
壊れたことによって永遠に失われないものになったんですよ
二者択一という発想がなんで起きたのかと言えば、自分の資質にこだわりがあるからですよね。失いたくないという。でも私の場合は無理やり壊されちゃったので、そのときに完全に壊れることによって永遠に所有したということが——考えたんじゃなくて——なっちゃったんですよね、そういう状態に。
ひるむとひるんだ映画にしかならないんだもん。
自分の一切の人間性を否定して、革命兵士に生まれ変わるんだというさ。
まあ、そうかもしれないけど、いまの若い子は本当に思うんだけど、壊れること自体よりも壊れることに対する恐れが強烈にあって、壊れるとどうなるかと言うと自滅するか、周りの人間を殺して滅びるか、どっちにしても破滅するんだと思ってるわけだ。すべてを失うというさ。それを失うまいと思って相当なプレッシャーのなかで生きてる。結果的にそれで病んじゃう。破滅するわけでもなんでもないんだよ。破綻することと破滅することは違うからさ、べつになにかを失うということはないんだよ。肯定するという意志があれば。
実際にそういうことがすべての人に起こるわけじゃないし、実際にそれが起こる手前だとものすごく怖いんですよ、壊れるというのは。受け入れることができないと思うんですね。私はなっちゃったからしょうがないというだけであって、選べと言われたら選ばないと思うんだけど、舞踏でそれを意識的にやっていくというのは極端なドラマが人生のなかにすべての人に起こるわけじゃないから、でもみんないまのままでいいとは思ってないわけですよ、いろんな意味でね。「これは本当の自分じゃない」みたいな気持ちはみんな持ってると思うのね。本当はもっと自由なはずだとかさ。そういうのを稽古を通して、古い殻を破ってなかから新しい生命を誕生させるということを少しずつ稽古のなかでやっていくという、実際なかなかそういうふうにはならないわけだけど(笑)、でも1回の稽古のなかでもなにか生まれ変わった、生まれ直したという体験を持つ人というのは結構いるんですよ。それをやったから明日から人生が変わるというものじゃないけど、それを積み重ねていくと。
あの当時の舞踏の稽古ってものすごかったんですよ。気が狂っちゃう子がいたり、自殺する人がいたり、日本刀の真剣を振り回したりとかね、そんな稽古をしてたんですよ。でももうそんな極端なことはする必要はない。壁にぶつかっていったり、そんなことしなくていい。暴れたりしなくていい。静かなものであってもいいけど一歩一歩確実に自分が生まれ変われる。で、なかから生まれてきた自分とは確かなものであって、人の目を気にしたり、なんだかんだ自分に執着して壊れたくないと余計に執着して、すごく苦しいくせに執着してるじゃないですか。そういうことじゃなくて少しずつ生まれ変わって、なかから生まれてきた自分というのは自信に満ちあふれた、疑う必要のない自分をそこから誕生させるんだということもひとつの目的なんですよね。