『サイバースペースはなぜそう呼ばれるか+ 東浩紀アーカイブス2』(東浩紀)についてのすべてのヨミメモ


・ テクノ・オリエンタリズム
不気味なものを地理的遠方に局所化し抑え込み、そのことによって自己(ないし西洋)を不気味さから免れさせる、一種の悪魔祓い、としてのサイバースペース。
・不気味なもの(フロイト)
不気味さの感情は、快楽原則によりエミュレートされた心の統一面の溶解、分散した所情報処理回路の再認から生じる。
不気味なものは主体を複数化する。それゆえ世界もまた複数化する。
・カリフォルニア・イデオロギー
 新右翼と新左翼、ヤッピー的起業精神とヒッピー的反体制意識、市場資本主義と共同体主義という、本来なら敵対関係にある対を、電子ネットを介して止揚するという幻想。ジェファーソン型民主主義。1970以降の政治的挫折という外傷からのイマジナリーな逃避。
・ カリフォルニア・イデオロギーとしてのディック
現実的な諸問題(1968的外傷)をイマジナールな次元へとずらした結果として生まれた世俗的な幻想、すなわちネットワーク化された広大無辺な知(超越的世界)と、そこへとアクセスしその情報の操作をもって現実を変革すると僭称するハッカー(媒介者キリスト)という対。
(ネットによる)現実の複数性は決して主体の同一性を脅かさない。
象徴的同一化は「騙す/騙される」ことを可能にする。その過程なしには人は社会化されない。社会的であることはつねに、自分の目(想像的な)よりも他者の言葉を信じる能力(たとえば師が無能だと知ってても、それを知らないように振る舞う能力)、つまりあえて騙される能力を必要とする。
では、大文字の他者が弱体化し、象徴的同一化が機能不全に陥った局面において、主体のその社会性はいかなる形で設立されるのだろうか。
「のちに生まれるものへ」ジェイムソン
60sのカウンターカルチャーを支えた世界観や政治的挫折から、70以後、自閉的で遊戯的な、無数の言語ゲーム(小さな物語)へと拡散。
「at interface value」的主体(サイバースペース的な主体)は、ジジェクが「シニカルな主体」と呼んだものの90年代的なかたちにほかならず、スターリニズムにおける「自らを騙す存在を欲する」と同型的。意識次元では虚構性を知りつつ、無意識次元では依存する。
かつてイメージは見え、シンボルは見えなかった。そのズレによって主体は成立した。しかし現代ポストモダン状況においては、全面的可視性、全面的表象性のなかで主体性を設立しなくてはいけない。
スクリーン上での、シンボルとイメージとのズレによって。
 インターフェイス的主体、言い換えればポストモダンの主体は、スクリーンをたえずイメージとシンボルとに二重化している。同じ二重化をかつての近代的主体は、スクリーン(見えるもの)とその背後(見えないもの)の弁証法によって組織していた。
 (中略)
 かつてはイメージは見え、シンボルは見えなかった。つまりそこでは、見えるものはあくまで表象の世界(見せかけ)にすぎず、その背後に信憑された見えない象徴秩序(真理)が主体間のコミュニケーションを保証していた。対していまや、イメージとシンボルとはともにスクリーンの上に「見えて」いる。20世紀後半のポストモダンの主体は、その全面的可視性、ポストモダンをめぐる言説の中でより一般的な表現を使うならば、その全面的表層性(すべてはスクリーンの上にある)の中でこそ主体性を設立しなければならない。そこではもはや、主体を主体たらしめる二重化のメカニズムは、「見えるもの」と「見えないもの」の区別に沿って組織化することはできない。
見えるものの全面化によって、見えないものの存在に脅かされる主体が成立しない。インターフェース的な主体は、見えないものの代わりに、見えるものをいかに分割化し二重化するか、スクリーンを、イメージをいかに分割するかに関心をもつことになる。
シミュラークルに覆われた世界で不毛な無限後退に陥らないためには、人々は不気味なものに感情移入して生きるほかない。
失われた調和(プレモダン)あるいは全体性(モダン)の回復というよりむしろ、分散状態の主体と不気味なものに満ちたポストモダニズムの肯定、ゆまり分裂病的世界の肯定。
・GUIをめぐる認識論的変化 1970s~
GUIの概念の発見。その理念は「What You See Is What You Get」と表現された。WYSIWYG。
 1980sにマッキントッシュが普及し始めた時、ユーザはしばしば、スクリーンとコンピュータの区別がつかないと批判した。
近代においては記号はイメージとシンボルに分割されていた。対してポストモダン化した私たちの世界において、その分割は崩れ、世界はイメージでもシンボルでもない新たな記号的様態、エクリチュールあるいは「不気味なもの」の群れに満たされている。
・1970s以降の「情報」と「ポモ」の共同関係
→ マルチメディア化(複製技術の統合)は、シミュラークルの全面化に
→ ネットワーク化(インターネットの整備)は象徴界の弱体化に
→ インターフェース化は、不気味なものへの感情移入というら新しい主体化の出現に
それぞれ対応していた
去勢
一般には男性器の切除を意味する。しかしそれは、ラカンの述語では、より抽象的に、ひとが社会化する過程一般を意味している。
ひとは最初イメージの世界に生きている。しかし大人になる、主体になるためには、ひとは万能感を断念し、シンボルの世界、言語で秩序づけられた社会的規約の世界に参入せねばならない。
あらゆる人間は、社会的な存在であるかぎり、必ず去勢されている。つまり欲望を断念させられている。
人文的な理解では
去勢がうまくいかず象徴界が機能していない→スキゾフレニア
象徴界にどっぷりつかりすぎていて、むしろ象徴界が変形され妄想が紡がれるような状態→パラノイア
斉藤環「外傷というのは本来、象徴的なもので直視できないもので、だからこそ幻想化をこうむる。しかし、いまの多重人格、トラウマ小説ブームは、想像的な外傷の復権。外傷のナルシシックな肯定になってる」
東浩紀「人文系の研究者は、基本的に理系の科学者は物を考えていないと思っていますからね。」
ファルス(去勢の徴)という特権的な記号。
去勢された大人はファルスを抱える。
空間と時間の問題。
空間的論理は、すべてを一挙に把握する。チャート化。
時間的な論理は、時間のプロセスの中で真理が生成されてゆく。ハイデガー、ベルクソン、精神分析学。ただ、ユング的な神秘化に陥りやすい。