『定本 夜戦と永遠 上---フーコー・ラカン・ルジャンドル』(佐々木中)についてのすべてのヨミメモ


注意しよう、この非-世界は、「鏡」と「言葉」がある「世界」の水準から、「それ以前に想定されるもの」として遡行的に見出されたものであるかもしれないということを。
「これはわたしだ」の純然たる喜び、イメージの輝かしい屹立の喜び。そこには一点の曇りもないはずだった。しかしその鏡の面に映える「わたし」は何かを失っていて、どこか死んでいる。
自己を想像的に同一化させる当の相手であるこの想像的な他者、ラカンが小文字で表示する小他者(autre)は、何か影のようなものであり、何かを欠損させている。おそらく、ここにはすでに「想像的ファルスの去勢」の前兆と呼びうべき何かがある。つまりファルスを持つ者になりたい、ファルスを「持ちたい」というのではなく、母の欲望の対象で「ありたい」、つまり「ファルスそのものでありたい」という欲望を切断する「去勢」、精神分析が長く自家薬籠中のものとしてきた「半ば殺す」こと、「〈もの〉の殺害」としての去勢の前兆が、すでにこの鏡像段階の第一歩にすでに浸透している。
ここで使われている語彙 ravir が、「うっとりさせる」「心を奪う」という意味の他に、具体的に「奪う」「強奪する」「誘拐する」という意味を持つことに注意しよう。鏡に映った瞬間、我々から何かが奪われている。
これはわたしだ。でも、なにかがおかしい。あまりにそれは死んでいる。
ラカンは言う、自我とはイメージであると。それはわれわれのまわりにあるさまざまな対象と同じ「全くの対象」にすぎない。われわれがこのわれわれ自身を、われわれの自己を見るのは「全くの対象」として、つまり外部においてである。わたしは、わたしの外にある。そう、この自分の姿は死んでいるばかりか、自分のものですらない。
人間が諸々の対象のなかに知覚するあらゆるまとまりの源は彼自身の身体のイメージです。ところが、このイメージについてすら人間は、そのまとまりを自分の外にしか、そして先取りされた仕方でしか知覚できないのです。
鏡の面に輝かしく映えた自らの姿のなかで、ひとは自らを、自ら自身を愛する。あるいは、憧れの「あの人」の姿のなかに自らを投影し、そのなかで自らを愛する。
そのなかで自らを愛しうるその姿において、実はひとは自らを「疎外」しているのだとすれば。自分自身に出会うことなど永劫になく、出会ってもそれはあの「死の影」にすぎないとすれば。
「攻撃性は、ナルシシズム的のわれわれが呼ぶ同一化の作用と相関的である」。この愛するわたしが、わたしのイメージが、誰かに何かを奪われていて、そのイメージ自体すらわたしのものではない。それは不当にもわたしではない誰かが持っているはずだ。こうして「同一化と原初的嫉妬」は同時に出現する。
自己が投射されるあらゆる小他者 a はその愛着と憎悪とともに増殖していく。
愛と嫉妬、愛と憎悪、この「鏡のなかにわれわれに現れる原初的な両義性」は不可避である。同一化が自我の起源である以上、自我である者にはこれを避けることはできない。「これがわたしだ」から「これがわたしなのか」への、「わたしをこのようにしたのはおまえか」への急変であり、輝かしい明るみのなかの歓喜からその同じ明るみのなかで嫉妬の眼差しを剝く明き憎悪への急転である。しかも、この「わたし」と「おまえ」は根本的に同一のイメージなのだ。
小説家を志望していた彼女は、若い頃流産をしたときに、尊敬と愛の対象だった自分の姉や優秀な友人が子どもを盗み奪ったのだという妄想にとりつかれた。
三一歳のラカンは、エメに「自罰パラノイア」の病名を提案し、実は彼女が罰したかったのは自分自身なのだと結論づけている。
わたしはわたしを愛しているのにわたしはわたしからわたしを奪われていてだからわたしをこんなにしたおまえを殺してやる、でもそのおまえはわたしだ!
われわれはわれわれの姿において、われわれのイメージにおいて、誰かに何かを盗まれ、搾取され、詐取されている。その何かを享楽するのは、いつも自分ではない誰かなのだ。
一言で言えば、想像界の袋小路を突破するのは「おまえは有罪のエメである」「他でもない、おまえはこの有罪のエメである」という断言、この「ことば」の「言い渡し」であり、法の一撃である。象徴界が、出現する。
「パラノイア精神病と人格は、たんに同じものだからですよ」