『イデオロギーの崇高な対象』(スラヴォイ ジジェク)についてのすべてのヨミメモ

イデオロギーの崇高な対象
スラヴォイ ジジェク
出版社: 河出書房新社   出版日: 2015-08-06   ページ数: 435

 主体そのものがある誤認によって構成されていることになる。イデオロギー的問いかけの過程を通じて、主体は、イデオロギー的大義の呼びかけにおいて呼びかけられているのが自分であることを「認識」するわけだが、このイデオロギー的問いかけの過程は必然的にある短絡、つまり「私はすでにそこにいた」という類の錯誤を含んでいる。
「おのれの欲望を諦めるな」というラカンのモットーは、「現実界とその象徴化を隔てる距離をゼロにしてはならない!」という事実のことを言っている。欲望の対象-原因として機能するのは、すべての象徴化におけるこの現実界の剰余である。この剰余(残滓)と折り合いをつけるということは、「根本的行き詰まり(対立)」すなわち「象徴的統合-解消に抵抗する核」を【認める】ということである。
 夢の解釈において重要なのは、潜在的な夢思考の部分ではなく、この潜在的な夢思考という(前)意識的なものを、顕在的な夢のテキストに翻訳作業をしている当の奴にある。夢へと変換するその作業に、無意識の願望が吸着するのであって、基本的に、夢の顕在的テキストと、潜在的な思考は、無関係なのである。無意識の願望は、日常コミュニケーションに用いられる正常な言語から排除されているものなので、潜在的な夢思考から夢テキストへの変換の時にしかあらわれない。秘密とは、夢という形態の後ろに隠れている内容ではなく、その形態そのもののことなのである。どうしてそのような形態をとったのか、どうしてそのような形態に翻訳されたのか、を問うこと。
 マルクスで言えば、どうして労働が貨幣という形態をとったのかと問うこと。どうして、貨幣という形態でしか、労働過程が表現し得ないのかを、問うこと。
・三重構造、三つの要因
- 顕在的な夢のテクスト
- 潜在的な夢思考
- 夢に表現された無意識的欲望
 商品の相対的価値の表面上の変動の下に隠された秘密とは、労働時間によってその価値の大きさが決まるということである。しかし真の秘密とは、形態そのものの秘密。つまり貨幣形態そのものの秘密である。なので、ブルジョア古典派経済学がいくら、商品の価値を労働時間であると暴いたとしても、それだけでは足りない、ということ。
形態を本質に、つまり隠された核に還元するだけでは充分ではない。隠された内容がそのような形態をとる過程、夢作業や貨幣形態、をも検討しなくてはならない。
カントのいう超越論的主体・・・「客観的な」科学的認識の先験的な枠組みを構成している、超越論的範疇の網
商品形態は、内的世界の病理学的な現象だが、普遍的価値をもった客観的認識という、認識論の根本問題を解く鍵をあたえてくれる。
・現実的抽象
 「交換の抽象は思考ではなく、思考の形態をとる」(アルフレート・ゾーン=レーテル)。現実的抽象は、思考する主体の内部で起きる過程とは言えず、どうしようもなく外的であり、中心から外れている。「無意識」とは、その存在論的位置が思考のそれではないような思考形態である。思考そのものの外にある思考形態。"それによって思考という形態があらかじめ表現されているような思考"の外にある、ある種のもう一つの光景である。
アルチュセールの認識論は「現実の対象」と「知の対象」とを根本から区別しているので、「現実的抽象」が入り込む余地はない。
・「イデオロギー」の基本的次元
 その存在論的整合性が、その参加者たちのある種の非知を含んでいるような現実。もし人が「よく知っている」ようになり、社会的現実の真の機能を見抜いたならば、この現実は霧散してしまう。「イデオロギー的」なのは、社会的存在の「誤った意識」ではなく、「誤った意識」によって支えられる当の社会的存在そのもののことである。「症候」とはこのこと。
・症候の定義
「その整合性そのものが、主体の側のある種の非知を前提とするような、形成物」である。その論理に気づかない限りにおいて主体は「自分の症候を楽しむ」ことができる。それをどの程度うまく解釈できるかによって、その症候がどの程度解消するか決まる。
ここでこの作品を取り上げるのは何よりも、この本にはどこか変なところがあるからである。
大事なのは、どうして現実そのものが、いわゆるイデオロギー的ごまかしを抜きにしては再現されないのかを明らかにすることである。たんに仮面が自分の本当の状態を隠しているというのではない。イデオロギー的歪曲はその本質そのものに書き込まれているのである。
重要な点は、王様はその服の下でのみ裸だということ。
「彼女を見てみろ、なんと恥知らずな、服の下は全裸だ」
日常言語では、「普遍」は「特殊」すなわち現実の物の1属性に過ぎない。商品の価値は、このりんごの1属性であり、価値がこのりんごの形態をとったのではない。価値そのものは存在しない。
しかし交換という現実的行為において、ひとは、あたかも価値の現実化したものがその特殊なりんごであるかのように行為する。
「彼らはそれをしらない、しかし彼らはやっている」とは、次を意味する。幻想は認識の方ではなく、現実そのものの側にあるということである。
 われわれのいう「社会的現実」とは、究極的に倫理的構成物で、すなわち「あたかも...のように」に支えられている。あたかも官僚制の全能をしんじているかのように、大統領を人民の具現化であるかのように、行動する。信念は絶対に「心理的」レベルで捉えてはならない。その信念が失われるやいなや、社会的領域の全体構造そのものが崩壊してしまう。
「習慣は、それが受け入れられているというただそれだけの理由で、公正さそのものである」という外傷的事実。これは権威の決定的条件であり、法は正義あるいは真理または機能的、などという根拠に基づいているというイデオロギー的な想像の経験によって、無意識の中へと抑圧されなければならない。
合理的な議論はやめて、何も考えずイデオロギー的な儀式に従い、意味のない身振りを繰り返すことによって、頭をからっぽにしなさき。要するに、すでに信仰をもっているかのように行動しなさい。そうすれば、信仰は自然にやってくる。
・「騙す」のラカン的定義
人間は真理それ自体によって他者を騙す。
仮面の下にある真の顔を誰もが探している世界では、みんなを迷わせる最良の方法は、真理それ自体の仮面をかぶることだ。コミュニケーションが成功するための必須条件は、外見とその背後に隠されているものの間の最小限の距離だ。
・象徴的機械=自動機械の外部性
単に外にあるというだけではない。それは同時に、われわれの内的な「心の奥底の」「表裏のない」信仰が前もって舞台にかけられ、決定される場でもある。
・国家のイデオロギー装置(アルチュセール)
 パスカルのいう「機械」、シニフィアンの自動運動。
・ラカンのいう「馬鹿」とは
 自分が即自分であることを疑わない者、自分自身にたいして弁証法的に媒介された距離をおくことができない者のことである。
 自分が○であり、自分が○であることを自分本来の特性であると考え、自分自身もその一部である相互主体的な関係の網によって彼に課せられた象徴的命令なのだとは考えない○のことである。
ユダヤ人のこれこれの性質を客観的に明らかにしたところで、それはユダヤ人に対する我々の偏見の真のルーツとは無関係である。イデオロギー的なユダヤ人差別は我々の無意識的欲望が反映している。
ユダヤ人差別にたいして「ユダヤ人は本当はそんなんじゃない」と答えるのは無意味である。仮に非イデオロギー的・客観的なアプローチをしたら、どんな結果になるか。合理性を加えることによって「無意識的偏見」を強化するだけのことである。
 したがって、
「ユダヤ人に対する偏見は実際のユダヤ人とはなんの関係もないのだ。イデオロギー的なユダヤ人像は、われわれ自身のイデオロギー体系の綻びを繕うためのものなのだ」と答えるべきなのである。
「やつらがどんなに危険か、わかっているのか。やつらの本性を見抜くのは難しい。やつらは日常生活では仮面をかぶり、自分の本性を隠している。そして、自分の本性を隠すというこの二重人格こそがまさにユダヤ人の本性の基本的特徴なのだ」
 イデオロギーというものは、初めは矛盾しているように見えた事実さえもが、そのイデオロギーを支持する議論として機能し始めたときに、真の成功をおさめたといえるのだ。
・もっとも「狡猾な」イデオロギー的手続き
特殊的な歴史の普遍化ではなく、その反対物、速すぎる歴史化。
エディプス・コンプレックスや核家族の三角形に対するフロイト主義との批判は、現実界の隠蔽に寄与する。
マルクス主義→特殊的歴史の普遍化を暴く。が、剰余物をうまく取り込まなかった。
ラカン的フロイト主義→剰余物つまり象徴化から逃れるリアルの残滓から目をそらさない。ラカンの剰余享楽の概念は、マルクス主義の剰余価値の概念をモデルにしていた。マルクスの剰余価値は、〈対象α〉は剰余享楽の具現化であるというラカンの論理をあらわしている。
・資本主義的生産過程を駆動する「原因」である剰余価値と、
・欲望の対象-原因である剰余享楽との、
相同関係。
本質的に過剰であり、その内在的矛盾によってこそ駆動するシステム。
したがって分析とは象徴化である。すなわち、意味のない想像界の痕跡を象徴界に統合することである。
無意識は、主体の歴史の、象徴的発達に同化されえなかった相続的固着からなるのである。
抑圧されたものはどこから回帰するのか?→未来からである
症候は意味のない痕跡であり、その意味は、過去の隠された深みから発掘・発見されるのではなく、遡及的に構成されるのである。
「なんの意味もなかったものが突如として何かを意味するようになるのだーただし、まったく異なる領域において」
未来への旅とは、われわれが他者の中に仮定する知識へと追い越すこと。したがって転移そのもののことに他ならない。その知識は幻想である。それは存在しないから。しかしそれは必要不可欠な幻想である。
他者はすでにその知識を所有しており、われわれはそれを発見するだけという幻想。
「過去への旅」とは、このシニフィアンそれ自体の徹底的で精巧な遡及的作業のことに他ならない。われわれはそのシニフィアンの領域においてのみ、過去を変化させ完遂させることができる。
オックスフォードの哲学者マイケル・ダメットの論文集『真理という謎』
「結果はその原因に先立ち得るか」
「過去を変える」
・われわれはいかにして「前進」するか
われわれは転移の中でわれわれ自身を「追越し」、われわれがすでにいた地点にいるのを後になって発見するという方法によってしか前進することができない。
「それは計算する。それは計算される。計算にはすでに計算する者が含まれている」(Lacan)
転移は、最終的な真理が生まれるために必要不可欠な幻想なのである。
最初の権力奪取は必然的に「時期尚早」である。「適当な時期」は、一連の「時期尚早」な企てが失敗した後ではじめてやってくるから。
したがって時期尚早な権力奪取に反対することは、権力奪取というもの全般に反対することにほかならない。、
革命のプロセスにはメタ言語はありえない。
ベルンシュタイン-強迫神経症の男性-行為を遅らせ、先延ばしにし、ちょうどいい時期を待つ。
ルクセンブルク-ヒステリー症の女性-自分の行為によって自分自身を追越し、それによって強迫神経症者の姿勢の虚偽性を暴く。
ヘーゲル「政治革命は、それが反復されたときにのみ、人民の意見によって広く一般に是認される」つまり革命は、失敗した最初の企ての反復としてのみ成功しうる。
→なぜ反復が必要なのか?→固有の特殊的歴史は、意識-民衆の意見からは恣意的に見える。その失敗のあと、現状復帰しようとしたときに、固有の歴史が反復されると、これによって、底にある歴史的必然性のあらわれとして捉えられる。
歴史的必然性そのものは、誤認をとおしてつくりあげられる。その真の性格を世論が認識できなかったことによってつくりあげられる。最初は偶発的な外傷として、象徴化されていないリアルの侵入として体験され、反復によって、象徴的必然性が認識される。
反復は「法」の到来を告げる。死んだ、殺された父親の代わりに「父-の-名」がからわれる。
ヘーゲルの反復=象徴化されていない外傷的な出来事の象徴的占有。
解釈はつねに、いくらか遅れて、遅すぎる時期に始まる。
ミネルヴァのフクロウは夜になるとはじめて飛び立つ。
歴史的必然性←→個人的偶然性
・ユダヤ人とポーランド人のヘーゲル的小話
われわれは魅力的な「秘密」を求めて、ユダヤ人の話に夢中らで耳をかたむける。この「秘密」こそまさにラカンのいう〈対象a〉すなわち空想のキメラ的対象である。この対象はわれわれの欲望の原因であるが、この欲望によって遡及的に設定されるものである。「空想を通り抜ける」こと(=精神分析治療の最後の瞬間、転移の消滅)を通じて、われわれはこの空想-対象(「秘密」)が、われわれの欲望の空虚さを物質化したものにすぎないことを体験する。
カフカ『審判』の門番
「これでわかったろう、門の向こうにある真の秘密というのは、おまえの欲望がそこに持ち込んだものにすぎないのだ...」
現実界なる外傷的な点は、つねに見逃され、象徴秩序の中へ統合しようとするにもかかわらず、つねに回帰してくる。ラカンの教えの最終段階によれば、まさしく症候こそ、そうした享楽の現実界的な核として捉えられる。
タイタニック号の残骸=崇高な対象=不可能な〈物〉の地位にまで引き上げられた現実界的・物理的対象。
・これこそが症候である
「症候」は、「どうしてそこには無ではなく何かがあるのか」という永遠の哲学的疑問に対するラカンの答えである。無の代わりに「存在する」この「何か」とはじつは症候なのである。
・1950時点のラカンにとっての症候
世界がうまく機能しなくなるとき、象徴的コミュニケーションの回路が壊れたとき、症候があらわれる。それは、別の手段によってコミュニケーションを続行するということ。捨てられ、抑圧された言葉は、コード化・暗号化された形であらわれる。症候は、その意味を握っているとみなされる大文字の〈他者〉に向けられている。
症候と幻想を弁別する。享楽の次元である幻想。これは解釈に抵抗する。享楽だから。
症候→言い間違い→解釈は喜んで受け入れられる
幻想→白昼夢→解釈されるのは不快、恥ずかしさを覚える
症候→幻想→サントム
サントムとしての症候→享楽に貫かれた意味形成物ら意味の享楽の担い手としてのシニフィアン。
・サントムとしての症候
主体の享楽を、象徴的意味形成物に縛り付けることによって、症候という一貫性を与える。
もし症候がこの意味形成物に縛られていないとどうなるか?
症候に唯一代わりうるのは、
-極度の精神的自閉
-象徴的宇宙の破壊
-世界の終わり
-無
-純粋な自閉
-精神病的自殺
-象徴的宇宙の完全な破壊にいたるほどの死の衝動への屈服
である。
症候を選ぶ=症候への同一化か、無か、どちらかしか選択がない。
・フロイトの有名な男尊女卑的な金言
サントムとしての症候がなければ、主体は主体として存在しえない
サントム・・ネットワークに組み込まれず、享楽によって満たされ、貫かれる、ある種のシニフィアン。
・新聞王ハーストに雇われていたある編集長にまつわる小話
イデオロギーの真の目的は、イデオロギーが要求する態度である。すなわちイデオロギー的形式の一貫性、われわれは「つねに同じ方向にどこまでも真っ直ぐ歩き続ける」という事実である。イデオロギーが持ち出してくる積極的な理由、内容は、この事実を隠蔽するためにあるにすぎない。事実とは、イデオロギー的形式そのものが本来もっている剰余享楽 la-plus-de-jouir のことである。
・本質的に副産物であるような状態
 それが副産物であることが、真の目的を達するための必要条件であるような状態のこと。
例: 陪審員制度。陪審員たちが、自分たちの仕事の司法的効果はほとんど無であり、その真の目的は市民的教育効果だ、ということを陪審員たちが知らない限りにおいて、陪審員制度の教育効果は機能する。
例: 宗教の現世的益。
例: 革命失敗の教育効果。「失敗しても気にすることはない、きみたちの闘争の主眼は、きみたち自身にたいする教育的効果なのだから」と、党が闘う労働者に言ってしまうとしたら、教育的効果は失われてしまう。
例: 子育て上のゲーミフィケーション。真の目的を教えてはならないということ。真の目的は、副産物である限りにおいて、すなわち主体に隠蔽されている限りにおいて、達成される。
・イデオロギーのキルト、キルティング
 浮遊するシニフィアン、すなわち原イデオロギー的要素の群れは、それらを「キルティング」し、それらが滑るのを止め、それらの意味を固定する、ある「結節点」(ラカンのいうクッションの綴じ目、ポワン・ド・キャピトン)が介入することによって、統一された領域へと構造化される。
・浮遊するシニフィアン
綴じられても結ばれてもいない諸要素。
一般的なマルクス主義者の本質主義。特定の1強ヘゲモニーが他を代替する例
・剰余を生み出す反転の論理
→コーク、マルボロ
→ユダヤ人差別の例
「クッションの綴じ目」は「固定指示子」として、すなわちそのシニフィエのあらゆる多様性を超えてその同一性を保持するシニフィアンとして、機能する。
・転移とは
 転移は、(支配的シニフィアンの介入によって遡及的に固定された)ある要素の意味が、内在的本質として最初からそこにあった、という錯覚からなる。
主体はすべての段階で「それがつねにすでにそうであったもの」になるという、転移の錯覚である。遡及的効果は、最初からすでにそこにあったものとして経験されるのである。
この想像的自己経験ゆえに、主体は、自分が〈他者〉に、すなわち主体の中心を外れた原因としての象徴秩序に、全面的に依存しているのいうことを認識できないのである。
・ラカンの鏡像段階理論とは
 自我はその構成上からしてその想像的〈他者〉の中へと疎外されるという理論のこと。
・想像的同一化と象徴的同一化の違い
 イメージとまなざしの違い。
 自分が自分自身を見る見方と、そこから見ると自分が自分にとって好ましく見えるような場所との、このずれ。
 誰のために、主体はその役割を演じているのか。
想像的同一化と象徴的同一化の差異の例
チャップリン: こどもをからかいの対象にする。
・要求とは異なる欲望
 〈他者〉の発する要求と、主体にとっての欲望のずれ。
 言表と言表行為のずれ。
 事実記述的な次元と、行為遂行的な次元とのずれ。
 あなたは私に何かを要求している。だが、あなたが真に欲しているのは何か。この要求を通してあなたが狙っているのは何か。
 Che vuor? 汝何を欲するか? S/◇a
 この要求と欲望との間の亀裂が、ヒステリー的な主体の位置を決定する。
 ラカンのの古典的な定式: ヒステリー的欲求の論理「我は汝にこれを要求する。だが我が真に汝に要求しているのは、我の要求を拒むことだ、これは我の本当に欲しいものではないのだから」
・言語存在としての人間の根本的状況
映画『北北西に進路を取れ』の、ロシアスパイに拉致された一般人の尋問。
 主体は、なぜ自分が象徴的ネットワークの中のこの場所を占めているのかを知らない。
・享楽とは
象徴化され得ないもののこと。
享楽の唯一可能なシニフィアンは、〈他者〉の欠如のシニフィアン。
・死の欲動としてのサントム
空想を生き抜く→空想の遮蔽幕の彼方にいく→〈他者〉すなわち象徴秩序に接続された外傷的不可能性、象徴されない何か、すなわち享楽のリアル・・・サントム、すなわち、享楽とシニフィアンとの不可能な接続。それは欲動、究極的には死の欲動。
呼びかけを超えた次元→〈他者〉の矛盾、享楽のリアル。
呼びかけの彼方にあるものは、
- 欲望、空想、〈他者〉の欠如、ある耐え難い剰余享楽のまわりで脈動する欲動の、四角形。
・イデオロギー批判の2つの手続き
1 - 言説的手続き。症候的読解。イデオロギー的領域が、浮遊するシニフィアンの、ある結節点の介入によるキルティング、シニフィアンの全体化の結果。
2 - 享楽の核を抽出し、あるイデオロギーが、いかにして、意味の領域を超えて、空想のなかに構造化されたイデオロギー的享楽を包含し、操作し、生産するかを文節表現すること。
 全体主義の不可能性は、ユダヤ人に社会的敵対関係、不可能性を置換、圧縮することによって隠蔽される。全体主義的空想の遮蔽幕となる。
 階級関係はない、性的関係はない。この、象徴秩序に統合され得ない敵対的亀裂を、空想で補完する。
 反ユダヤ主義は、1.言説の分析レベルでは、社会的敵対性の置換圧縮。ユダヤ人は社会的敵対性の症候。 2. 〈他者〉の享楽の核の次元では、社会は存在しないというこの社会的否定性そのものが肯定的存在を獲得し、サントムとしてのユダヤ人を産出する。
! まさにネトウヨの在日存在論そのもの。全体主義的自我または社会の不可能性を隠蔽するために、在日的サントム、在日的意味形成物を産出する。享楽とシニフィアンとの不可能な接続による意味形成物としての在日というサントム。
「空想を生き抜く」
=「症候と同一化する」
= 症候としてのユダヤ人に帰せられる過剰は、我々自身のシステムの不可能性そのものであるという真実を見てとること。
・コーヴェル(Kovel)
 支配的人種差別の嫌悪的人種差別
 黒人・中国人は本来の隷属的場所へ←支配的人種差別
 ユダヤ人は境界を侵犯し同一性ももたない(という全体主義の投影)←嫌悪的人種差別
(2)ここでは、支配的人種差別と嫌悪的人種差別という、ジョエル・コヴェル Joel Kovel がたてた区別を用いることができよう。ナチのイデオロギーにしたがえば、全人類が階層的・調和的な<全体>を形成している(その頂点にいるアーリア人の「運命」は支配することであり、黒人や中国人その他は仕えなければならない)。全人類といっても、ユダヤ人は別である。ユダヤ人には居るべき場所がない。彼らの「同一性」自体からして贋物である。ユダヤ人の同一性は境界を侵犯し、不安と敵対性を持ち込み、社会の組織を不安定にするところにある。そのようなものとしてのユダヤ人は他の人種と共に陰謀をたくらみ、その人種が自分本来の場所に我慢していられないようにする。ユダヤ人は、世界支配をもくろむ隠れた<支配者>として機能する。ユダヤ人はアーリア人自身の反転イメージであり、一種の否定的・倒錯的な分身である。だから、他の人種は自分たち本来の場所に留まるよう強制されるだけだが、ユダヤ人は皆殺しにされなければならない。
最後の審判の視点
歴史の審級
革命により遡及的に救済された、人々の声なき失敗。これは創造説的な行為で、死の欲動の根底的介入。支配者のテクストの抹消、無からの新しいテクストの創造。
圧殺された過去は「存在しているであろう」ものになる。
スターリン主義とベンヤミンの対立
進化論的観念論と創造説的唯物論の対立
ヘーゲルの弁証法は、進化論的ではない。むしろ反進化論的。
「弁証法的発展」は、無からの開始のたえざる反復に、つまり想定される内容の抹消と遡及的再構成に、ある。
変化の連続的な流れ、とはなんの関係もない。非連続的なもの、死の欲動の介入的なもの。
2つの死の間の空間に置かれた崇高な対象=<対象a>
全体主義と民主主義の違い。
全体主義は、人民が存在しない秩序。
民主主義は、人民が被支配者で、権力の位置は常に空っぽ。
民主的な社会では、現実界が浸入する瞬間、すなわち選挙がある。
ポスト構造主義者たちの詩的な文体、つまりアイロニーに溢れる自己注釈と対自距離にみちた文体や、自分の言った文字通りの意味をつねに転倒しようとする態度
ブレヒトの学習演劇
・ポスト構造主義者の文学主義
 あらゆる直接的で単純な発話を禁じ、つねに新しい注釈、退却、脱線、括弧、引用符を付け加えなければいられないと感じるところのもの。
・男根のシニフィアン
それ自身の不可能生の指標。それ自身を示す指標としての真理、の否定版。
・ヒッチコック的な対象、マクガフィン
 純粋な口実、唯一の役割は、物語を動かすこと、しかしそれ自体は何でもない。
外傷的出来事は究極的には、象徴的構造における空無を埋める幻想的構築物に過ぎず、したがってその構造の遡及的効果である。
問いを発することの猥褻性
楽しんでいるはずの主体
強迫神経症。人種差別。
欲望しているはずの主体
ヒステリーにおける疑問は、「彼の欲望の対象は何か」ではなく、「彼はどこから欲望しているのか。彼はいったい誰を通して自分の欲望を組織化しているのか」である。
カント=強迫神経症=物自体を回避する、誤りを恐れる、欲望の実現を先送りする、疑念を自己に向ける
ヘーゲル=ヒステリー=物自体を求め過ぎて追い越す、焦りまくる、疑念を他者、知っている主体に向ける
カーテンの向こうに何も無いということによって、この無を媒介することによって、この誤認の行為によって、主体は構成される。
崇高な対象には何か内在的に崇高なものがあるわけではない、ということを忘れてはならない。崇高な対象とはごく日常的で普通のものであり、まったく偶然にdas Ding 物 の場所を占めたに過ぎない。
崇高な対象とは、<物 das Ding>のレベルまで高められた対象である。それは構造内におけるそれの場所が、享楽の聖なる/禁じられた場所を占めるという事実であって、そこに内在的に崇高な特質があるのではない。
ごく普通の日常的な行為が、das Dingの不可能な位置(<他者>の聖なる/禁じられた・空っぽの場所)を占めるやいなや、どうしても実現できなくなり、欲望の崇高な対象を具現化することになる。
「幻想を通り抜けること」
その鍵は、幻想と対象の反転の経験の中にある。主体は、欲望のつねに欠如している対象-原因それ自体が、ある種の欠如の対象化・具現化に過ぎないことを経験しなければならない。対象の魅力的な現存は、それが占めている場所が空っぽであることを隠すためのものであるということを経験しなければならない。その空虚はまさしく<他者>における欠如であり、それが<他者>(象徴的秩序)を、穴のある整合性のないものにしているのであり、主体はそれを経験しなければならない。
カーテンの向こうには何もなく、あるのはすでに向こうまで行った主体だけである。
ヘーゲルの言う実体と主体
実体=意識=カーテンの向こうに物自体があると信じている
主体=自己意識=幻想を通り抜けた後、カーテンの向こうには、主体という空無があり、それへの欲望によって主体が駆動されているということを自覚している
・シニフィアンの欠如を欠如のシニフィアンに転換すること
 それによって欠如そのものが象徴化されるこの転換が、ファロスである。