『ひとつではない女の性』(リュス イリガライ)についてのすべてのヨミメモ

ひとつではない女の性
リュス イリガライ
出版社: 勁草書房   出版日: 1987-11-01   ページ数: 306

寝たい女と一緒に寝る女、ひとりの女ともうひとりの女
不潔(不固有性)
同一者、そして他者。こうしたものすべてを越えてしまうまでに事柄が満ちあふれることにあなたはお気がつきでしょう。
彼が通った後には、表側は裏側を失っているだろう。多分、反対側もまた失うだろう。けれど「それらがなくてどうやって生きられるの?」 ただの正面だけ、ひとつの顔だけ、ひとつの意味だけで。ひとつの面だけで。常に鏡の同じ側で。この切断は各自をその他社から切り離し、他者は突然全くの他者として現われる。奇妙にも見知らぬ者。敵対し、不吉な者。冷ややかなまでに他者。
だから、ひとりの女において、女はすでにふたり、しかし、ひとりずつに分離できない、愛しあうふたりなのである。
女は視覚より触覚によって快楽するからであり、女が支配的鏡体制へ参入すれば、それは、女にとって、またもや受動性を割り当てられることを意味する。女は見るに麗しい対象となるからだ。
不定形のまま(無限に)、自己と触れ合いつづける女性性器の形態のこの不完結性
女はひとつでもふたつでもない。厳密には女をひとつの人格として規定できないし、ふたつにさえできない。
女に期待されている《女らしさ》のありとあらゆる偽りの仮面劇
触れること、触れ合うことへの女の欲望
女はあちこちに性器を持つ。
自己のいかなる快感をも他者のために犠牲にしないこと、いかなる特定の快感にも自己同一化しないこと、単なるひとつに決してならないこと
固有のものや所有物は、女性的なものにとって、少なくとも性的には、かなり無縁であろう。しかし、近いことは無縁ではない。あまりに近いから、あらゆる同一性の識別は不可能になり、それゆえ、あらゆるかたちの所有も不可能になる。女はこのあまりの近さを快楽するから、この近さを所有することも、快楽しあうこともできない。
男根(大文字の男根)とは自己の諸特権に執着する神の現代的な姿ではないか
それに、セクシュアリティ発達を証明するためにフロイトが持ち出す解剖学的根拠は、ほとんどすべて、生殖を目的とするものに関わっています。性機能と生殖機能とを分離することが可能だとしたら、——これは明らかにフロイトがあまり考えなかった仮説ですが――、そうなると、一体、何が起こるでしょうか。
これらの問題を未解決のままにしておけば、女性を精神分析することが、結局は、女性を男性型社会に適応させることになってしまうでしょう。
この女性の《文体》、《エクリチュール》は、むしろ、物神的な語、固有な表現、よく構築された形態などに火を放ちます。この《文体》は、視線を特権化せず、あらゆる文彩をその誕生の場に戻し、それを触覚できるものにします。
とはいえ、それが言うことを理解するためには、はっきりとした形態におけるのとは違った仕方で、聴くすべを持たなければならない。
それは、圧力に対してより敏感であることを快楽し、また苦しむこと。
だから、女の言うことは、固有の意味を聞き逃して(固有という感覚をなくして)はじめて聴けるものなのだ。
(父の)言説の中で分節される意味作用により、すでに、輪郭を定められたこの体積の外には、何もない。つまり、存在しない女、沈黙の地帯しかない。
流体は、「君はそれだ」から、つまり、あらゆる停止した自己同一化から、免れるのである。
さて、「あなたはひとりの女性ですか」という質問は、多分、そうではない《他の》部分があるという意味でしょう。しかし、この質問はおそらく《男性の側で》しか提出されえないものです。この疑惑を、私は減少させるつもりはありません。なぜなら、この疑惑は、言説の現行機能の場とは違う他の場に通じる可能性を持つのですから。
たしかに、もし私が「どうしてこんな疑問をもったのですか。私がひとりの女性であるのは明らかじゃありませんか」と答えていたら、私は、ある種の《真理》とその真理の権力とをもった言説の中に、また陥っていたでしょう。また、もし私が話したり書いたりして明らかにしたいと思うことが、この「私はひとりの女性です」という確信から出発しているのだと主張すれば、私は再び《男根支配的》な言説の中に入ってしまうでしょう。
女性的なものが概念のかたちで表現しうると主張すれば、またもや《男性的》表象体系にとらわれるままになります。この表象体系の中では、女性たちは、(男性)主体 の 自己愛に奉仕する意味体制の中には、められてしまいます。
女性理論を練り上げるには、男性たちで足りると私は思います。
あるいは、無意識という名で機能しているもののある部分は、《女性的なもの》に由来するのではないか。
これは《女性の側で》問題が解決されはじめたことを意味するでしょうか。私は全く別の問題だと思います。なぜなら、たったそれだけのことで、問題が女性の側でも解決し始めるなら、それは、《他者》である女性というものが、今後とも決して存在しないことを意味するでしょうから。
性的差異に対してヒエラルキー関係をもっていることを問題にしないすべてのエクリチュールは、いまだ変わらず、固有の意味の体制における生産者である、と同時に生産物ではないかと。エクリチュールが、ひとつの性のみによって《定義され》、《独占され》ているかぎり、それは、変わらぬ所有体制における生産の道具に常に留まるのではないですか。
とにかく《前代未聞》なことは、女性が《道具》なしですでに自己愛化しうること、女性が、どんな道具にも頼らずに、《自己自身の裡で》自己と触れ合うのが可能であることです。この観点からすれば、女性に自慰を禁じるのは、かなりこっけいです。だって、どうやって女性に自己と触れ合うのを禁じるというのでしょう。女性性器は《自己自身の裡で》たえず触れ合っているのですから。その代わり、この触れ合いを妨げ、自己と触れ合うのを妨げるために、すべてが動員されることになるでしょう。男性性器のみの評価、つまり、男根主義、意味の男根的論理、男根的表象体系は、ことごとく女性性器をそれ自身から引き離して、女性から《自己愛》を奪う方法なのです。
以上のことを言っておいて、さて、女性的統辞とはどのようなものかに戻れば、それは簡単ではなく、容易に言うことはできません。なぜなら、この《統辞》には、もはや主体(主語)も客体(目的語)もないでしょうし、《ひとつ》であることは、もはや特権化されないでしょうから。また、固有の意味、固有名詞、《固有の》属詞……もないでしょう。この《統辞》は、むしろ、近いことを作動させるでしょう。この近さはあまりにも近いので、同一性のあらゆる区別、帰属のあらゆる形成、したがって、占有のあらゆるかたちを不可能にしてしまうでしょう。
「そのような統辞の例を挙げていただけますか。」
《女性的に語ること》の問題は、まさに、——現在のところ徴候とか病理とかのかたちでしか探知できないような——欲望のこの身振りやこの言葉と、狭義の言語をも含めた言語との間に可能な連続性を見出すことでしょう。
しかし、男性のモデルから借用しないと、私の言表は、現行のコードでは理解不能なものになり、異常だ、ひいては、病理的だと形容されてしまうのです。
要するに、破壊することが、しかし、ルネ・シャールが書いたように、婚礼道具によって破壊することが、必要でした。道具というものは女性の属性ではありません。
恍惚(脱我)
この連辞の場は、女性的なものと言語との関係において、女性的なものに《特性》が認められなければ生じえません。このことは、言説の一貫性が課す論理ではない他の《論理》を伴います。
たとえば、この《論理》は、言説のあらゆる閉鎖性と円環性を——原理と目的のあらゆる形成を——拒むでしょう。それは《固有》よりはむしろ《近さ》を、ただし、哲学的伝統の空間-時間的体制の中に、(再び)とらわれないような《近さ》を特権化するでしょう。
たとえば、男性であるあなたに対して、女性である私は、読解の、エクリチュールの、解釈の、主張の、どんな他の様式をもてるでしょうか。この差異が再びヒエラルキー化の過程に引き戻されないことは可能でしょうか。同一者への他者の従属の家庭に引き戻されないことは可能でしょうか。
男性的なものと女性的なものという対立を維持するよりは、言語におけるこの差異の非ヒエラルキー的分節の可能性を見出すべきでしょう。
欲望の次元、快感の次元は、意味を述べようとする言説の《生真面目さ》——妥当性、一義性、真理……——の中では、翻訳できない、表象できない、読み取れないことを忘れてはなりません。
そうではなく、真理を述べることは、女性の快楽の禁止に、したがって性関係の禁止になってしまうと言っているのです。
だからこそ、女性たちが集まりうる、しかも《女性だけ》で集まりうることが、とても重要なのです。男性社会によって割り当てられ、教えられた位置、役割、身振りから抜け出すことをまず始めるために、また、男性が、事実上、女性間の敵対関係を組織したのに対して、女性の間で、愛しあうためにも、そして、自分たちに常に押しつけられてきた《社会性》とは違う他の《社会性》のかたちを発見するためにも、女性だけで集まるのは重要です。