『高校生が生きやすくなるための演劇教育』(いしい みちこ、平田 オリザ、前田 司郎、水谷 八也、多田 淳之介、柴 幸男、藤田 貴大)についてのすべてのヨミメモ


普通、授業は「できる」ことが求められますが、私の授業では「できる」ことが一番いいことではありません。
アイコンタクトを実際に体感するために「ランダムウォーク」というレッスンを行います。これは全員で室内を自由に歩く、というだけのものですが、歩きながら誰かとすれ違うときに、相手の視線、自分の視線に意識を集中させます。
そんなことを歩きながらすれ違いざまに相手に伝えようとします。ここまで内容が複雑になってくると、なかなか伝わりません。でも、なんとか伝えようとしていくうちに、相手の目を頑張らなくても自然に見られるようになっていきます。
立っている人はフロアで脱力して寝ている人の身体を揺らします。手を持って脱力した身体をひっくり返したりぶらさげたりして、本当に脱力しているか確認します。力を抜いて自分でコントロールできない状態にして、相手に身体を預けることをやってみるわけですが、集中していないとすぐに意識が邪魔をして、自分を守ろうと体がこわばったり、緊張して無駄な力が入ったりしてしまいます。リラックスして力を抜く、相手に身体を預けてみる。これは相手を信頼し、その人に自分を委ねるための基礎訓練なのです。
私たちがやっている声のワークは、声帯を痛めないようにできるだけ力を抜いて(「脱力」が役に立ちますね!)、声帯が出す音の波動を骨に響かせていくというものです。まずは自分の身体に響かせて、次に空間に響かせて、その後にようやく声を目標に届ける、という順番で進めていきます。
このレッスンでは、声を届ける生徒を1人前に立たせ、他の生徒たちはそれに背を向けて演習室にバラバラに座ってもらいます。1回のレッスンで座るのは10人くらいです。声を届ける人は、背を向けて座っている生徒のなかから誰か1人を心のなかで選び、その人の背中を叩くようなつもりで意識を集中して「ねえ!」と声をかけます。背中を向けている側は、自分が声をかけられたと思ったら手を挙げます。
このワークは、誰に声をかけたのかを当てることが目的ではありません。大切なのは、普段使わないせいで鈍ってしまっている声の力や身体のセンサーに気づくため、声をかける側とかけられる側、どちらも感覚を研ぎ澄ます必要があるということです。
普段は言葉の意味と共に何気なく使っている声ですが、声自体で相手に触れる、相手を振り向かせるとなると、実は声がまったく届いていないということに気づきます。
ただ歩いているだけなのに、その人の「存在」が鮮やかにこの目に飛び込んでくる。各々が引き受けた唯一無二の異なった身体を基盤とし、自分が独立した一個の人間である現実を喜び、その身体をコントロールすることを心から楽しみながら、堂々と歩いているのである。
誰の身体のなかにも潜んでいる
教材は常に生徒自身であり、すべての答はすでに生徒自身の身体に内蔵されている。
身体のこと、脱力、声のことなど、基礎基本を約半年かけて学んだ後に取り組むのが、〈自画像〉という1人芝居のプログラムです。画家が自画像を描くように自分自身と向き合って、モノローグの芝居を作り、学内で生徒や教職員、保護者の前で発表するというものです。
「ノリ」が大切な彼らが、普段の会話のなかで大切にしているのは「盛り上がり」です。話や場が盛り下がったりする「重い」話はできるだけ避けて、明るく楽しい、おもしろい話題を次々と繰り出すことが求められているので、話はどうしても表面的で、底の浅いところで行ったり来たりすることになります。
〈自画像〉では生徒と教師が1対1で対話をし、作品を創作していきます。そこで生徒が自分自身をどう考えているか、どう捉えているか、正直に話すことが求められます。自分に素直に向き合わないと、そのごまかしはすぐに言葉や態度や目の表情に現れます。身体は嘘をつきませんから。〈自画像〉制作での生徒との対話は真剣そのものです。しかもそれは、演劇演習室で、他の生徒が見ている前で行われるのです。そこで話されている「重い」内容を聞いて、多くの生徒から「悩んでいたのは自分だけじゃなかったんだ」という感想が出てくることも多いです。
起こっている現象だけで人を判断しない
作品創作を始める前に必ず言うのは、やりたくないことはやらなくてもいいということです。本人が言いたくないこと、掘り下げたくないことをこちらが強要することは決してありません。
まず生徒たちが作ってきたシークエンス(ひとつながりのシーン)に対して、徹底的に質問を繰り返していきます。初期段階では何が出てきてもいきなりの否定はしないし、「こうしたほうがいいよ」とか「そこはこうでしょ」といった指示はできるだけしないようにしています。あくまでも生徒自身の、個人の体験と感覚を尊重しようとします。
初期段階では、自分の欠点を反省するような表面的な作品ばかりですが、
このバリアは自分を傷つくことから守ってくれる。でも人と深く関われないし、周りの様子も全然見れない。
劇場は自分や世界や人生を考える場所
私1人が特権的な演出家としてすべてを決めていくのではなく、基本は集団創作です。エチュードと呼ばれる、短いシーンを作って、それを積み重ねていく。それを、イギリスでは「ディバイジング」と呼んでいます
何か特別なストーリーをこねくりまわして作らなくても、教室のなかで実際に起きている、誰と誰が一緒にお弁当を食べるかのちょっとした葛藤とか、友人とのけんかを避けちゃって、つい距離が開いていったりする日常の風景のほうが、おもしろかったりする。彼らのリアリティが息づいているから、強度を持つ
作品作りでは、とにかく話し合いをします。話をする時間を2週間ほど、がっつりとる場合もあれば、1週間だけ話して、まずはそのなかのひとつのシーンをエチュードでやってみて、またそれを素材に話し合いに戻ることもあります。
話し合いは「最近考えてること」みたいな雑談から始まります。
次に、その絞られた問題を表現できるような小作品を作っていきます。これは生徒たちがグループワークで行います。
できあがったところで発表してお互いに見せ合います。1作品発表するごとに、それに対する乾燥と批評を全員でします。
これを1日1作品のペースで行うのです。
本番の2週間くらい前までは、とにかく小作品を作り続けて、時間切れになる前に、作った小作品をメモしたカードを一度みんなで見直します。それらを元にして、どんな作品ができるか、という話し合いが始まります。みんなで印象に残った小作品を選んでいって、それをストーリーに紡いでいくのです。
同時に、小作品を作るために自分の周りで起こっていることに興味を持ってよく観察するようになります。周囲の気持ちを想像したり、自分の心の動きにも敏感になります。
本番では、そのリアリティを失わないように、セリフを初めて言うように言葉を発しなければなりません。そのために、毎回積み上げてきたことをリセットするようにして、舞台上を生きるようにとアドバイスします。
でも大人の視点も交えながらなんとか作業を続けていくと、それがだんだんできるようになります。
最終的に、それまで一緒に作ってきたピースを私が構成して、ひとつの作品の形にしていきます。共同創作とはいえ、決定する主体が必要だと思います。
最後に責任を取るのは誰か、
声を張ったりしない自然な発話や、同時に複数がしゃべっている状態の会話を芝居に取りいれるあまり、それがあまりに「自然」で「日常」すぎて、演劇っぽくないと思われたりもします。
「現代口語演劇」
この自然さこそ、3章でお話したようなトレーニングの成果です。大きな負荷をできるだけかけないようにていねいに段階を踏んだ結果、無駄な力が入っていない状態で、自分を芝居の世界に持っていけるわけですから。
たとえば、「標準語で滑舌よくちゃんとセリフを言いなさい」と、脚本を繰り返し練習させる、というのは負荷です。負荷が強すぎると、生徒たちは、思考停止状態になっちゃうんです。言われたとおりをこなすだけになってしまう。
私はその人自身や代替不能なその人の身体から立ち上がるものに興味があります。それをつぶしてしまうものは「負荷」だと思っています。