nekotool さんのヨミメモ

『ラカン―鏡像段階』(福原泰平) by nekotool

ラカン―鏡像段階
福原 泰平
出版社: 講談社   出版日: 1998-02-01   ページ数: 365

 精神分析とは、何かをそこで得るような経験としてあるものではない。彼はオイディプス同様、精神分析の運命を徹底的に受け入れることで、みずからの生涯を全うしたということができるのではあるまいか。ともに己自身を求めながらも、これが「汝自身を知れ」ということの解答であるかのような、奪われることを唯一の経験とするような他者の役割を引き受けることで、二人はその存在を忽然と消し去っていったのである。
・症例エメ
彼女には像を内在化し、それを自己につなぎとめておくみずからの中核となるべき印が欠けていた。そのためにエメは、このような理想像への同一化という、外部の衣装を取っ替えひっかえしていくことで自己を見いだし、みずからを根拠づけようとするより他に方法がなかったのである。 自己と他者とがお互いを照らしあうことで、自己を示す印は合わせ鏡の像のように無限に後退していくことになる。
去勢の機能不全ないし機能不足。ファルスを持たないがゆえの、イマジナリーな世界の鏡像的同一化の反復により、主人と奴隷の弁証法の中に延々と囚われている。象徴界の調停者がいない。
「私」とは他者を自己として生き、それゆえに大きなアポリアに引き込まれて苦悩する者のことなのである。
・鏡像段階は絶対的他者の眼差しによって可能になる
 自己の鏡像とは、第三人称としての他者によって支持され、他者のまなざしという、欲望のオブラートによって包みこまれることがなければ、決して、先取りした理想像として、幼児に受け入れられることがない。
 鏡像段階とは、象徴的な世界の成立を背景にしてはじめて存在し得るものともいえるし、象徴化への萌芽が見出せる段階だということもできる。
・鏡像段階由来の「自我」
 無視と誤認の機能によって人を盲目にし、想像的な自己確信の中に閉じこもる。
 自我とは自己の仮面。
・自己愛=ナルシシズム
 自体愛→自己愛→対象愛
(内部→自己身体→外部)
 自己愛(ナルシシズム)とは、全体性と自律性をもつ完璧な理想像としての自己の鏡像へと向かう愛着のこと。鏡像段階の頂点。
外的な対象との関わりを可能にする内的対象化にはその前提として、ナルシスティックな対象との同一化が必要である。
想像界に生きる想像的な構造を持つ自我においては、内部と外部という境界は見失われ、両者は連続性のうちに直接的関係で結びつく。自他融合。
・語りの句読点
 短時間セッションの理論的根拠:母親の幼児に対する沈黙や無関心といった象徴的な意図せぬ介入が、子供の母親に対する鏡像的な隷属に句読点を打ち、その呪縛を解く。これと同様、語りに切れ目を入れることでそれを象徴的な関係へと受肉させてやることができる。患者の語りの中に1つの区切りをつけ、父なる機能をそこに入れてやるのいう技法が、その核心にある。
しかし実のところ、みずからの欲望の対象として、期待されたとおりの分身に仕立て上げようとして母権的な支配機構の中に取り込もうとする王妃に対し、こうした呪いに切れ目を入れようとする彼が、母なる世界の怒りを買ってしまった。
S1=欠如のシニフィアン=主人のシニフィアン=特権的なシニフィアン=ファルス