nekotool さんのヨミメモ

『事件! :哲学とは何か』(スラヴォイ・ジジェク) by nekotool

事件! :哲学とは何か
スラヴォイ・ジジェク
出版社: 河出書房新社   出版日: 2015-10-10   ページ数: 224

今日真に危険なのは、われわれが日本の「他者性」を尊重しようとするまさにそのときに、われわれ西洋人自身の意味世界の裏返しを日本に投影してしまうことである。
彼らは日本の降伏を否定することが誤りであることをちゃんと知っていた。にもかかわらず、日本の降伏を信じることを拒んだ。
個人の確信と、われわれが参加しているシステムの論理そのものに刻み込まれている信念とを混同してはならない。
・事件 an Event
突然起きて、物事のふつうの流れを乱すように思われる、衝撃的で、調子の狂った何か。はっきりとした原因もなく、どこからともなく出現したような何か。何か確たるものにもとづいていない、ただの見かけ。
例: キリスト教徒: 信じるという偶発的な事件があって、はじめて信仰の理由が理解できる。
例: 恋愛。事件の結果が遡及的にその原因あるいは理由を決定するという循環構造の好例。恋したから、個々の要素に惹かれる。惹かれる個々の要素があるから、恋するわけではない。恋するという事件があってはじめて、惹かれる理由が遡及的に構成される。
事件とは、原因を超えているように見える結果のこと。
哲学の2つのアプローチ
20世紀の例;
 超越的アプローチ→ハイデガー
 存在論的・実体的アプローチ→自然科学
・「知っていることを知らない」
フロイトの無意識
「自らを知らない知」by ラカン
ラカンにとって無意識とは、俗流心理学のいうような「論理以前の・非合理的本能的空間」ではなく、「主体の知らない、象徴的に分節化された知」である。すなわち無意識とは、主体の知らない、圧倒的な言語的社会的知識のことである。
最も基本的な次元では、事件 an Event とは、世界の内側で起きるものではなく、われわれが世界を知覚し、世界に関わるときの枠組みそのものが変わることでえる。
最も基本的な次元では、事件 an Event とは、世界の内側で起きるものではなく、われわれが世界を知覚し、世界に関わるときの枠組みそのものが変わることでえる。
この主観の変容こそがこの映画の事件的瞬間である。それは誰もが認めようとしない現実が露呈される瞬間であり、それがいまや啓示となり、世界を変える。
幻想を通り抜けるというのはたんに幻想の外に出ることではなく、幻想の基盤を破壊し、その矛盾を受け入れることである。普段、現実リアリティへのアクセスを支えている幻想の枠組みは見えなくなっている。これを見ること。逆説的だが、幻想を通り抜けるとは、自分を幻想に完全に一体化させることである。幻想と過剰に同一化することによって幻想を通り抜けるという逆説。
例→ 『エム・バタフライ』『くらイング・ゲーム』男の中核的幻想に直面する。女に対する異性愛は、実は同性愛であり、女は女装した男なのだ、という幻想。
キェルケゴールの言葉を引くと、「愛はすべてを信じる。だがけっして騙されることがない」。これは「何も信じないにもかかわらず、それでも騙される」ということの反対である。いっさい他者を信じない者は、逆説的に、まさにそのシニカルな不信のせいで、最も根源的な自己欺瞞の犠牲になる。ラカンならば「騙されない者は彷徨う」と言うだろう。不信感の塊のような人は、どんなに儚く、脆弱で、つかみ所がなくとも、外見には真実性があることを見落としている。信じる者は外見を、そして外見「を通して輝いている」魔法の次元を信じる。彼は他者の中に<善>を見る。他者自身がそれに気付いていなくても。ここではもはや外見と真実とは対立していない。
プラトン-デカルト-ヘーゲル
客観-主観-絶対
ヘーゲルの絶対的なるものは、主観的幻想を客観的真理そのものへと包含する。絶対的視点に立てば、事実は虚構-幻想を含んでおり、正しい選択は誤った選択のあとでのみ可能になる。
真の思索的な意味は、何度も読み直した後、最初の「誤った」読み方の名残(あるいは副産物)として、はじめて現れる。
シェイクスピアが、本来ならば後の時代に属している洞察を先取りしているさまはほとんど不気味なほどだ。
「君を愛している。なぜなら君の鼻は美しい/脚が魅力的だ」云々というのはア・プリオリに間違っている。愛は宗教信仰と同じだ。ポジティヴな属性が魅力的だから愛するのではなく、反対に、愛しているからこそ、愛の視線で対象を見ることになり、ポジティヴな属性が魅力的に見えるのである。
「それは本当にそこに、源泉(the source)の中にあるのか。それともわれわれが勝手にそこに読み込んだだけなのか」というジレンマに対する正しく弁証法的な解決はこうだーーそれはちゃんとそこにある。ただしわれわれは現代の視点から遡及的にしか知覚できない。
・偶然性から必然性への弁証法的反転
 偶然的過程がもたらす結果は必然性の出現である。事物は遡及的に必然「だったであろう」ということになる。
もしーー偶然にーーある事件が起きると、その事件は、それが不可避であったかのように思わせるような先行連鎖をつくりあげる。
 われわれはここで、主人のシニフィアンの変化力といういわゆる遂行的(performatif 発話行為)とを混同しないように留意しなくてはいけない。主人のシニフィアンの介入は事実確認(constatif)の形をとる。つまりすでに存在している何かについて事後に語るという形をとる。ただしその発話は遡及的にすべてを変化させる。嫌悪の正しい表現は、「どんなにあなたのことが嫌いか、いまわかった」ではなく、「どんなにあなたのことがずっと嫌いだったか、いまわかった」である。後者だけが過去そのものを取り消す。
 われわれはここで、主人のシニフィアンの変化力といわゆる遂行的(performatif 発話行為)とを混同しないように留意しなくてはいけない。主人のシニフィアンの介入は事実確認(constatif)の形をとる。つまりすでに存在している何かについて事後に語るという形をとる。ただしその発話は遡及的にすべてを変化させる。嫌悪の正しい表現は、「どんなにあなたのことが嫌いか、いまわかった」ではなく、「どんなにあなたのことがずっと嫌いだったか、いまわかった」である。後者だけが過去そのものを取り消す。
私は、強姦がよくないのだと議論する必要のある社会なんぞに住みたくない。強姦を擁護する人間がいたらすぐに頭のおかしいやつだと見なされるような社会に住みたい。
・最近の資本主義のイデオロギー的勝利:
 個々の労働者が自分自身の資本家、すなわち「自己の起業家」となり、将来の教育や健康にどれほど投資すべきかを自分で決め、借金をしてその投資に充てる。
 われわれは、法の下での資本家と労働者との形式的平等からはらに一歩先にすすみ、いまや資本家も労働者もともに資本主義的投資家になってしまった。
本物の資本主義的投資家と、「自己の投資家」として行動せざるを得ない労働者の間に、以下の違いがあらわれている。
一方は偉そうににやにや笑い、事業に熱心だ。他方はおどおどし、気が引けている。
彼がおどおどしているのは正しい。彼に押し付けられた選択の自由は偽の自由であり、彼の奴隷労働の形式そのものであるから。
債務者に金を貸す真の目的は、それによって利息を稼ぐことではなく、借金を無限に維持し、それによって債務者を永久に依存と隷属に留めることである。