nekotool さんのヨミメモ

『人はみな妄想する -ジャック・ラカンと鑑別診断の思想-』(松本卓也) by nekotool


精神医学(DSM)の「統合失調症」という概念の範囲は広く、ラカン派におけるパラノイアからスキゾフレニーまでを含む。
三つの構造と否定のメカニズム
- 神経症 抑圧
- 精神病 排除
- 倒錯 否認
精神病では、象徴界の水準にあるべきシニフィアンが、現実界の水準であらわれる。二項対立の可能性の中にあるべきシニフィアンが、対立項を失った形で出現する。あるところには過充満にありすぎ、ないところには絶対的に欠如する。
スキゾフレニア(破瓜型統合失調症)→パラノイア(妄想型統合失調症)
「享楽の脱局在化」→「享楽の再度の局在化」
「享楽が身体に回帰する」→「享楽が大他者それ自体の場に見出される」
「対象aの氾濫(眼差しや声として)」→「享楽を患者にとって受け入れ可能な形式に整形するためのシニフィアン化の過程(シュレーバーにおいては神や主治医として)」
・フロイトにおける「表象」
 ラカンにおけるシニフィアンの先駆的概念と言える。
 ドイツ哲学で通常用いられる「心に思い描かれた対象」とは別の意味をもつ。
 表象とは、対象の側から心的装置に到来するもので、表象はそこで、種々の連想の系列において相互に結び付けられる。
・フロイトの欲動 Trieb
 欲動とは身体内部から発生する飢えや渇きといった刺激を源泉とする。これが心的装置に入るために「表象」へ代表される。欲動が持つエネルギー量は、情動量ないし単に「情動」に代表される。
 欲動→(代表する)→表象or情動
フロイトの性愛発展
1. 自体性愛 Autoerotismus ー部分対象的、身体の部分
2. ナルシシズム Narzissmus ー鏡像的統一像、自我、身体像
3. 対象愛 Objektlieb ー人や物といった外的世界の対象
 精神病構造の人物は病前、「かのような」パーソナリティによって日々を運用している。表面上は、うまくいっているように見える。しかしライフイベント上で、主体定立的に「発言すること」を要請されることを契機に、精神病を発病させる。
 "as if personality" 「かのようなパーソナリティ」
「仮装」と「おとしめ」ーファルスであろうとする女性と、ファルスを持とうとする男性。ヒステリーとDV。
ファリックな意味作用
 <父の名>の導入により母の欲望が隠喩的に置換され、原-象徴界の全体に対して生み出される、新たな意味作用のこと。
◆父性隠喩の図式◆
 <父の名>(大他者/象徴的ファルス)
 NP(A/Phallus)
<父の名>は象徴的の秩序を安定化させるシニフィアンであり、ファルスは象徴界に属するシニフィアンがファリックな意味作用を持つことを保証しているシニフィアンである。すなわち、ファルスは、象徴界に属するあらゆるシニフィアンのシニフィエであり、シニフィエ一般のシニフィアンである。あらゆるシニフィアンの意味は、究極的にはファルスへと還元される。
 「現実界におけるシニフィアン」という精神病現象の定義には、シニフィアンは象徴界を定義するためには十分ではないということがすでに示されている。象徴界はシニフィアンの"連鎖"によって定義されるのであって、隠喩(あるシニフィアンを他のシニフィアンで置き換えること)はその連鎖の流儀のひとつである。
by ソレールの解説
 シニフィアンはそれ自体では象徴的なものではない。シニフィアンが象徴的なものであるといえるのは、シニフィアンが他のシニフィアンと連鎖しているかぎりでのことである。反対に、シニフィアンから切り離されたシニフィアンは、現実的なものである(例えば精神病者にとってのシニフィアンはこれである)。
by 松本卓也
ラカンは幻覚 hallucination という語をほとんど言語性幻覚つまり幻聴と同義として使っている。なおラカン派では、精神病における視覚性・嗅覚性等の幻覚を、言語性幻覚から二次的に発生したものと考える議論がある。
神経症者ーー「シニフィアンの場としての大他者」が、「法の場としての大他者」(=父の名)によって二重化 redouble されている。
精神病者ーー大他者は除外されてるわけではない。ただし、大他者の非-二重化に特徴づけられている。すなわち、「シニフィアンの場としての大他者」が、「法の場としての大他者」に二重化されていない。「精神病の主体は前駆的な大他者 l'Autre prealable に満足している」。精神病者は、<父の名>によって二重化される前の前駆的なシニフィアンの世界(原-象徴界)に住んでいる。
<父の名>は、母の欲望のシニフィアンを置き換えるシニフィアンであり、その置き換えを「父性隠喩 metaphore paternelle」と呼ぶのであった。この父性隠喩は、主体の想像界の中にファルスの意味作用、ファリックな意味作用を呼び起こす。症状や夢や言い間違いといった無意識の形成物は、すべて性的な意味を持っている=ファリックな意味作用を持っている。
「科学は<物>を排除するディスクールである」ラカン セミネール7
ファルス享楽ーー器官の享楽
 享楽の局在化。享楽を、対象aという抜け道を通って獲得可能なものにする。
 シニフィアン→対象a→<物>
 神経症者は自分の享楽を大他者に差し出すことを恐れている。ヒステリーは自身が大他者の欠如であるファルスに、先取りしてなることによって、それ以上自分を享楽させないようにする。つまり、分離の操作に執着する。強迫神経症は、疎外を拒絶し、大他者に享楽する余地を作らせない(ようにできると思い込んでいる)。
 しかし、彼らは、疎外と分離をすでに経験している以上、そもそもはじめから享楽を喪失しているし、その時に去勢を経験しているのである。
 彼らは、「大他者の欠如」を、「大他者の要求」(という想像的な空想)と同一視すふ者たちである。
 彼らは去勢を経験しているけれども、去勢を想像的な水準で解釈してしまってるがため、享楽を差し出したり去勢されたりすることを恐れるのである。むろんそれは彼らの空想であって、去勢は既に終わっている。
 幻想を通り抜けること、ファンタスムを横断することにより、「大他者が去勢を要求している」という想像的な解釈をうちすてることができる。欲望の次元を開くことができる。
(p.298-303)
 精神病者は、神経症者と違って、「疎外と分離」のうち、「疎外」は終えてるが、「分離」を経験していない。だから享楽が局在化 localisation されておらず、享楽が大他者の場所に回帰したり(パラノイア)、享楽が身体に回帰したり(スキゾフレニア)する。
(p.296-7)
「疎外」ーー主体の象徴界への参入を印し付ける。<父の名>という虚構を信じる(神経症)か信じない(精神病)か。
「分離」ーー制御された享楽(セクシュアリティ)へと主体を導く。対象aの抽出とファンタスムの形成が起こる。成功している(神経症)かしていない(精神病)か。
 スキゾフレニーは、神経症者が依拠している通常の主人のディスクールが正常なものでも普遍的なものでもないことを暴露する機能をもっている。スキゾフレニーの、ディスクールに対するイロニー、ニヒリズム。
 既存のディスクールとラカンが呼ぶものは、ノーマルな妄想 delires normau のことである。
 スキゾフレニーから見れば、主人のディスクールは、妄想のヴァリアントのひとつ。
 神経症者は、身体の享楽をファルスというひとつの身体器官に局在化することによって、過剰な享楽の氾濫から身を守っている。スキゾフレニー患者は、象徴界のいう手段を使って現実界から自らを防衛することのない唯一の主体であり、過剰な享楽。身体に直接受けることになる。
 パラノイアの妄想性隠喩とは、ひとりきりのディスクール生成。パラノイアにおいても、シニフィアンは他のシニフィアンに対して主体を代理表象する。
症状 symptome が言語の次元を孕む象徴的な症状であるとすれば、サントーム sinthome は享楽の側面を孕む現実的な症状であるといえる。
症状の一般理論によれば、精神分析は無意識の知(S2)を相手にするのではなく、その知の発生源にある物質的な語でえるララング(S1)を取り扱わなければならない。ララングにこそ、身体に言語がはじめて導入される際のトラウマ的な衝撃が、自体性愛的な享楽として刻み込まれてるから。
 フロイトが行っていたような古典的な解釈は、意味の解釈である。分析家は、分析主体の症状がもつ意味を分析主体に伝える。それは、既存の無意識の知S1に、新たな知S2を付け加えるような解釈である。→「順方向の解釈」
現代ラカン派にとって、「症状を読む」とは、症状の意味を聞き取る=理解することではなく、むしろ症状の無意味を読むことにほかならない。
50年代ラカンーー「未来への関係における自らの歴史の主体による実現」を分析の目標にしていた。すなわち、家族の神話、家系の象徴的物語のなかで伝承されてきた位置を分析主体が自ら引き受けること。
60年代ラカンーー分析の終結はファンタスムの横断と関連づけられる。
70年代ラカンーー症状の一般理論以後の精神分析はーー分析主体が自らの症状の根にある固有の享楽のモード(単独性=特異性 singlarity)とのあいだに適切な距離を取ることができるようになったとき、分析が終結する。「自分の症状との同一化」「自分の症状とうまくやっていくこと」。
 ここで、一方では「ララングと折り合いをつけること」には、普遍的な象徴的無意識に依拠し、つまりテクニカル、マニュアル的に対応する、折り合いをつける(ララングにエディプス神話を連鎖させる等の)ニュアンスがあるのに対し、他方で「うまくやっていくこと」には、普遍的な象徴的無意識に依拠せず、特異的=単独的なやり方でララングと「うまくやっていく」ニュアンスがあり、70s後期ラカンは後者を重視した。例えばジョイスのように。逆方向の解釈によってむきだはれたララングから、オルタナティブな主体のあり方とオルタナティブな社会的紐帯を生み出すこと。
◆ラカンとエディプス三角形
 ラカンは「精神分析の裏面」セミネールでエディプスコンプレックスを再定式化し、母親の獰猛な享楽という驚異から逃れるらために神経症者が作り上げるものとしてこれを位置付けている。
 そのため、精神分析家の方がエディプスコンプレックスを使うことはまったく無益であるとされる。
「すべての事柄をエディプスという同じ皿に盛り付けるということはまったく不当なことである」「エディプスコンプレックスをフロイトのひとつの夢として分析すること」(1970.3.11)
 アンチエディプスはラカンと同じことをしている。アンチエディプスは1972刊行。