yuhr さんのヨミメモ

『喜劇の手法 笑いのしくみを探る』(喜志哲雄) by yuhr

喜劇の手法 笑いのしくみを探る
喜志 哲雄
出版社: 集英社   出版日: 2006-02-01   ページ数: 221

やがて、人物たちは——少なくとも一部の人物は——自分には隠された過去があったこと、自分自身の存在についても未知の部分があったことを悟る。このことは畏怖の念を誘うにちがいない。そして、これが肝腎の点なのだが、この感覚は、作品を支配している不条理な滑稽感と裏腹になっているのである。
喜劇と喜劇でない劇との区別は、題材や構造によって生じるのではない。それはひとえに作品と観客との関係によって決まるのだ。
要するに機智合戦は、互いに相手の台詞の形式や相手の台詞の特定の言葉を反復することによって成立するのである。別の言い方をするなら、機智合戦において重要なのは連続性である。形式においても内容においてもまったく新しい台詞を語ると、そこで断絶が生じ、機智合戦は成立しにくくなる。
こういう台詞の応酬は、対立関係にある男女のあいだでなされることが多い。ただし、そういう対立関係は絶対的なものであってはならない。どれほど憎まれ口を叩き合っていても、ふたりの息が合っていなければならないのだ。
これらのやりとりに鮮明に表れているのは、語り手が自分自身を、また自分自身の心理や行動を、できるだけ対象化しようとする傾向である。身も蓋もない言い方をするなら、これでは恋愛はできない。機智合戦という手法は、特にイギリスの風習喜劇においては連綿として用いられてきたが、そこで何よりも印象的なのは、それに従事する恋人たちが、機智を保ちながら恋をするという、普通に考えたら不可能なことをしようとして苦労する様子である。恋愛は没入なしには成立しない。風習喜劇の作家たちは、没入を斥けるという無理なやり方を選ぶことによって、かえって緊張感のある恋愛を描こうとしているようだ。
その問題とは、演劇的認識の根底にある逆説にほかならない。シェイクスピアは『真夏の夜の夢』の登場人物のひとりに、演劇的認識とは狂気であるのだが、狂気であるがゆえにそれは常識によっては捉えることができないものを認識できるという趣旨のことを語らせている。
いったい我々はこの劇の真実をどの次元において捉えるべきなのだろうか。いやむしろ、真実を捉えることなどできはしない、真実は限りなく相対化されていると言った方が正確であるかもしれない。真実のように見えるものも、虚構であるのかもしれない。
芝居とは虚構であると彼は述べているのだ。