yuhr さんのヨミメモ

『あるヒステリー分析の断片―ドーラの症例』(ジークムント フロイト) by yuhr


夢という問題を深く追求することは、ヒステリーやその他の精神神経症における心的行程を理解するための必須の前提条件であり、そして、この準備作業を省略しようとする者には、この領域においてほんの数歩先へ前進する見込みもない——これが、当時から今日にいたるまで変わることのない私の主張である。
ヒステリー症者は確かに人生のあれこれの時期については首尾一貫した十分な情報を医師に提供できる。ところが、それに続いて別の期間について報告する段になると、患者たちの伝えることは希薄になり、隙間や謎を残すようになる。あるいはまた、まったく不明瞭で使い物にならないような報告しか得られず、何も明らかにならないような時期に行きあたってしまうこともある。そうした時期については、見かけ上の前後関係さえたいてい寸断されてしまっており、さまざまな事態がどういった順序で起こったのかは不明瞭となる。女性患者は物語っている最中でも、自分の言ったことや日付を繰り返し訂正し、そののち長々と迷った後、結局またふたたび元の発言に戻ったりするのである。
まず第一に、女性患者は自分自身でよく知ってもいるし、また語ってしかるべきでもある事柄の一部を、いまだ克服しえない羞恥心(また、他人が関わっているときには、その人たちへの守秘の配慮)を動機として、意識的にまた意図的に押しとどめてしまうことがある。ここには意識的な不誠実が関与している。第二には、女性患者が自分の既往歴に関して知っていることの一部が、普段ならば話せるし、それについては押しとどめておこうなどとことさら決意したのではないのに、医師に物語るさいには出てこないことがある。ここには無意識的な不誠実が関与している。そして、第三には、かならず真の記憶喪失が見いだされる。古い想い出だけではなく、つい最近の想い出さえこの記憶の隙間の中に陥ってしまうのである。そのさい、この隙間を埋めるために二次的に形成された想起錯誤がかならず見いだされる。
医師が、いわば抑圧の第一段階にある想い出に出会うこともよくある。すなわち、それらの想い出は、疑惑が付着した状態で現れてくるのである。少し時が経つと、この疑惑は、忘却や誤った想い出に置き換えられる。
経験から得られた法則が教えるところでは、疑惑をともなった話し方がなされる場合、語り手によるこうした判断の表明は完全に無視すればよい。話し方に揺れがあって二つのことが言われるときには、最初の発言が正しく、二番目の発言は抑圧の産物と考えるべきである。
病歴に関する想い出が今述べたような状態にあるということと、疾病症状のあいだには、必然的で、理論的に要請される相関関係がある。治療が進行する過程で、患者は、自分がつねに知っていたにもかかわらず押しとどめていたこととか、それまでは思いつかなかったことを、事後的に持ち出してくる。そうすると、想起錯誤はもはや維持しえないことが判明し、想い出の隙間はふさがれるのである。それ自体として首尾が一貫し、理解可能で隙間のない病歴を概観できるようになるのは、ようやく治療の終わりごろになってからのことだ。治療の実際的な目標は、全てのありうる症状を解消し、それを意識的な想念に置き換えるという方向へと向かう。しかし、それとは別の理論的な目標として、患者のあらゆる記憶障害を癒すという課題を立てることができる。これら二つの目標は一致するものであって、一方が達成されれば、他方も成就する。同じ道が二つの目標に通じているのである。
そして、私はいずれの症例においても、『研究』が要請する心的条件を、すなわち、心的トラウマ、情動の葛藤、そして——『研究』以降に発表したものの中で付け加えたことであるが——性的領域に加えられた衝撃をかならず見いだしたのである。隠しておこうと努めることによって病因として働くようになった事柄を、もちろん患者が進んで医師に向かって持ち出してくるなどと期待してはならない。また探りを入れる医師に対して、最初に「いいえ、そんなことはありません」という答えがなされたからといって、それでこと足れりとしてはならないのである。
猛烈な罪悪感にさいなまれるようになり、
これは上述の体験より時期的にもっと早く、そのうえ、性的トラウマとして作用するのにずっとふさわしい体験であった。そのころドーラは十四歳であった。
ある人物においてなんらかのきっかけで性的興奮が生じるさいに、主として不快感が喚び起こされるならば、あるいは、不快感しか喚び起こされないなのならば、その人物が身体症状を生じさせうるかどうかにかかわらず、私はそういった人々すべてを躊躇なくヒステリー症者と理解するだろう。
すなわちこれは、下半身から上半身への新たなずらしである。
女性が、衣服で覆われてはいるが、それと知覚しうる男性器の輪郭を認知した場合、この認知は、抑圧を経たのちに、非常に多くのケースで人間嫌いや人づきあいへの恐れの動因となる。性的なものと、排泄物の幅広い結びつきには、たぶんどれほど重大視してもし足りないほどの病理的な意味があり、そしてこの結びつきは、数限りないヒステリー性恐怖症の基盤をなしている。
精神分析治療のなかで、正しい根拠をもった、異議の唱えようのない一連の想念が浮かび上がってくると、医師にとって、たぶんそれは困惑の瞬間となるだろう。患者はその瞬間を捉えて、「でもこれはすべて真実ですし、もっともなことでしょう? 私が先生にお話ししたことに、なぜ先生は変更を加えようとなさるのですか」と尋ねてくるからだ。しかし、そののち明らかになってくるのは、そうしたさい患者は、分析による攻撃が仕掛けられないこうした想念を、批判や意識から逃れようとする別の想念を隠蔽するのに利用しているということだ。
子どもたちは、嘘をついたと責められると、躊躇なく「おまえこそ嘘つきだ」と言い返すのである。大人が悪口を相手に投げ返そうとするときには、同一内容の反復に重きはおかず、敵対者の現実の弱点を何か探し出そうとするだろう。またパラノイアにおいてこの種の非難の投射が他者に対してなされるさいには、非難の内容は変更されず、したがってそれはまた現実に依拠することもない。この場合、その投射は妄想形成の行程として顕在化するのである。
すなわち、精神分析の技法における法則となっていることだが、ある内的な連関がまだ隠匿されている場合、その連関は隣接性によって、つまり、複数の思いつきが時間的に連続して現れることによって表されるのである。
恋人が遠くにいるときは、彼女は発話を放棄した。彼女は彼と話ができないのだから、発話はその価値を失ったのである。
一定の身体面からの迎合——身体のある器官の内か、あるいはその表面における、正常ないしは病的な行程から生じる迎合——なしにヒステリー症状は成立しない。ヒステリー症状の性格には反復の能力が備わっているが、しかし、もし症状に心的な意味が、つまり意義がないのなら、症状は一回限りしか成立しない。ただし、ヒステリー症状がもともとこうした意義を具備しているのではない。意義は症状に付与されるのであり、いわば症状にハンダで接合されるのである。
ある種の心的な流れにとって、症状を用いるのは好都合なのである。そしてそのことによって、症状は二次機能をもつにいたり、心的生活の中にいわば繫留されるようになる。患者を健康にしようとする者は、そのとき強い抵抗に出会って驚いてしまう。その抵抗からは、患者が病気を捨て去ろうと心底から本気で意図しているのではないことが見てとれるのである。
一次的な疾病利得は、あらゆる神経症の発病にさいして見いだされるものである。
状態がそんなふうに見えるおかげで、彼女は幼年時代に効き目があると気づいた方法を、目的にかなったやり方で、しかも、自らを意識的に咎めることなく利用できるのである。
そしてやはりこうした病気のあり方は、意図のなす業なのである! 病気の状態は通常、ある特定の人物のせいで起こる。それゆえ、その人物がいなくなれば、病気の状態も消える。
また、患者をどんなに元気づけたり、ののしったりしても、それは何の役にも立ちはしない。まずは、分析という回り道をして、病気になろうとする意図が存在することを患者に納得させるよう試みねばならないのである。
性的なことに関する知識が無意識においてもないのであれば、ヒステリー症状が成立することもない。逆にヒステリーが見いだされるなら、両親や教育者が言う意味での「無垢なる精神」などもはやお話にならないのである。
すなわち、ある人がむき出しの顕在的な倒錯者となった場合、むしろ、その人は倒錯したままにとどまったのであり、発達抑止の段階にある、と言ったほうが適切なのである。すべての精神神経症者は強固に発達した倒錯的傾向を備えた人々であるが、ただしその傾向は、成長の過程で、抑圧され無意識的になってしまっている。それゆえ、精神神経症者の無意識的な空想は、倒錯者が判で押したようになす行為とまったく同じ内容を示すのである。
そして、こうした想念が思考活動によって解消できないことについては、二つの理由がありうる。すなわち、その想念自体の根が抑圧された、無意識的な素材にまで達しているからか、あるいは、その想念の背後にさらに別の無意識的な想念が潜んでいるからだ。後者の場合、たいていその無意識的想念は過大視された想念とは正反対の想念である。反対物はつねに相互に密接に結びつく。そのさいよくあるのは、一方の想念が非常に強く意識されるのに対し、それと対をなす他方の想念は抑圧され、無意識的になっているという組み合わせだ。こうした関係は、抑圧行程の成果である。つまり、抑圧すべき想念の反対物を過度に強化するという仕方で、しばしば抑圧が達成されるのである。
娘が父に対して、息子が母親に対していだくこのような早期の恋心の痕跡はおそらく大多数の人間において見いだされるものである。しかし、資質的に神経症を起こすべく定められ、早熟で、愛に飢えた子どもたちにおいては、こうした恋心が当初から通常より強烈だったのだろうと想定せねばならない。
当時の私はまだ知らなかったが、無意識から現れ出た行程を表す別の形式がある。これはきわめて奇妙ではあるが、しかし、完全に信頼の置ける形式である。それは、「そんなことは考えたことがありませんでした」とか「そんなことには考えが及びませんでした」という患者の叫びである。こうした叫び声はまさに「ええ、それはわたしには無意識的だったのです」と翻訳できる。
そのうえで、私たちは、神経症者においては、その資質にかなり強い同性愛の素質が見いだされるものと考えたい。この考えは、正常な者にも備わる倒錯の芽が、神経症者においてはより大きく発達するという先に述べた見解に沿うものである。
すなわち、無意識においては、様々な想念が何の軋轢もなく並び立ち、対立する想念も互いに衝突することなく折り合いをつけており、さらに意識においてこうした状態がなおそのまま存続することも実際、非常によくあることなのである。
ドーラはK夫人について物語るたびに、夫人の「うっとりしてしまうような白い身体」のことを褒め称えるのだった。そのときの口調は、敗北した恋敵というより、むしろ恋する者のようだった。
こうした男性的な感情の流れ、あるいは、それよりは女性への愛の感情の流れと言ったほうが適切であるが、そうした感情の流れは、私の考察によれば、ヒステリーの少女たちの無意識的な愛情生活における典型なのである。
患者たちは、感情的反発のせいで自分自身においては認識できないような連関を、他者においては認識するのである。
ヒステリー症状は、子どもたちがマスターベーションをしている限り、まず現れることはない。それが現れるのは、禁欲するようになってからのことだ。ヒステリー症状はマスターベーションによる満足の代替を表現する。
ヒステリーや不安神経症における呼吸困難や動悸は性交行為から剝がれ落ちた断片以外の何ものでもない。
(秘密、医師に対する不安——呼吸困難による代替)
私のようにこのデーモンを呼び覚まし、それと戦おうとする者は、この戦いにおいて自分も無傷ではいられないことを肝に銘じておかねばならない。
彼らが空想の中でもっとも強く切望することが、現実として彼らの前に現れると、彼らはそこから逃げ出してしまう。
病気の現象は、ずばり言ってしまえば、患者の性的活動なのである。