yuhr さんのヨミメモ

『引き裂かれた自己: 狂気の現象学』(R.D. レイン) by yuhr

引き裂かれた自己: 狂気の現象学
R.D. レイン
出版社: 筑摩書房   出版日: 2017-01-10   ページ数: 360

彼にとっては、自己とはただ溺れまいとしてつねに絶望的な営みをしている人間なのだ。理解されること(それゆえ、把握され了解されること)、愛されること、あるいはただ見られることにおいてさえ、呑み込みが危機として感じられる。
なぜなら、彼は文字通りの真空という恐るべき無でしかありえない、と感ずるようになってしまっているからだ。
現実は、ただそれだけで呑み込みや爆入の恐怖を起こさせる迫害者なのだ。
自分を十分に理解する(自分を呑み込む)ことは、他人による理解の渦に吸い込まれる危険性からの防衛手段なのである。
孤独で途方にくれ、恐怖し困惑しているときの方が真の自己になれることを彼女は知った。
肉化それ自体は、絶望感や無意味感に対する保証にはならない。
それは真空になる。
自己の最大の願望が最大の弱さとして感じられ、この弱さに屈服することが最大の恐怖なのである。
空想の中では自己は誰にでもなれるし、どこへでも行けるし、どんなことでもできる。
偽りの自己の表出である外面的な行動は、全く正常であることが多い。それは模範的な子供であったり、理想的な夫であったり、勤勉な社員であったりする。
偽りの自己の従順さの最もはっきりしたひとつの側面は、この従順さが暗示する恐怖である。
事実彼は、父親に対して感じていたが面と向かって言うことのできなかった感情を、彼の客たちに持たせたのだ。面と向かって言う代わりに、父親のカリカチュアを通して、父親に対する辛辣なコメントまで引き出したのである。
「内的」な秘密の自己は、偽りの自己の性質を憎悪している。またそれを恐れもしている。なぜなら他人のアイデンティティを取り入れるということは、つねに自己自身に対する脅威として経験されるからである。
このように、他人への憎しみは、自分の存在のなかへ取り入れたその人の性質へと集中される。しかしそれと同時に、一時的にしろ長期的にしろ、他人の性格を取り入れるということは、自分自身でなくなる方法であり、安全をもたらすものと思われるのである。他の誰かの性格というマントの下で、自分ははるかに有能になめらかに「頼もしく」振る舞えるのであろう。D夫人の言葉を使えば、そのような人は自己自身になろうとすれば避けることのできない恐ろしい頼りなさと困惑を、あえて素直に経験するよりは、自分自身でなくなることにつきものの、絶えざる虚無感を進んで引きうけるのである。
しかし精神病状態では他人による凝視や吟味は、文字通り「内的」自己の核心にまで突き通るものとして経験されうるのである。
自己は生き生きと現実的になることを恐れる。なぜなら、そうすることによって直ちに壊滅の危険が高まることを恐れるからである。「自意識」はこの逆説と関係がある。
母親が部屋からいなくなると泣き出す子供というのは、自分自身の存在が消えてなくなることに脅えているのだ。
この「自己」意識が彼にとっていかに辛いものであったとしても、それは彼の身体的経験が自己と全く分離しているために、彼は、このような回り道によって、自分が明確な存在をもっていることを確証するために、他人にとっての現実の対象として自己を意識することが必要であったという事実から、不可避的に生ずるものであった。
彼はみずからを去勢されているふりをすることによって、去勢の脅威を受け流すのである。
すなわち、存在を維持する手段として存在を否定すること、である。
すなわち一方で彼女は自分を殺し、他方では「自己」が失われ盗まれることを恐れていたのである。彼女は他人の考えしか抱くことができず、他人が言ったことしか考えることができなかった。
このように彼女は自己喪失を恐れているにもかかわらず、「現実性を取り戻す」ためのあらゆる努力は自己でなくなることを含み、自己から逃げ、自己を殺す試みが基本的防衛手段として使われ続けた。
自己は肉体と結合し、肉化されることを願うのであるが、そうなれば免れえない攻撃や危険に晒されると考えて、肉体のうちに宿ることをつねに恐れてもいる。
ある患者に言わせると、自己は普通の会話を交わしただけで、圧しつぶされ、ずたずたに切り裂かれるように感じるのである。統合失調症患者は自分の「本当の自己」を愛してもらいたいと心から願っているにもかかわらず、愛を恐れているのである。いかなる形にしろ彼を理解することは、彼の防衛機構全体を脅かすのである。
自己は、知られていなければ安全なのだ。それは身を突き通すような批評から安全であり、愛に圧倒され呑み込まれることから安全であり、まして憎しみによる破壊からは安全である。統合失調症患者が自分を知られていない場合には、彼の肉体はもてあそばれたり、操られたり、撫でられたり、抱き締められたり、叩かれたり、注射や他人のものを注入されたりするが、それでも傍観者である「彼」は犯されることはないのだ。
それと同時に自己は理解されることを願っている。彼は確かに、自分の全存在を受け入れてくれ、そうすることによって「彼を存在させてくれる」人を求めている。
このことは、統合失調症患者は自分を理解してくれていると思われる人に会うときは、統合失調症でなくなる、という精神分析家ユングの言葉をはっきりと確証するものである。
ばらばらになったものをひとつに統合して、その患者をひとつにまとめ上げる主要な力は、医者の愛、患者の全存在を認め無条件に受け入れる愛である。
私にとってあなたは、いくら押しても転がっていってしまわない、大きな石であることが必要だったのです。あなたといるときは、私は安心して不平をぶつけることができた。しかし他の人に対しては、彼らを喜ばせるために自分を変えようと努力していたのです。
医者は、患者が憎しみを抱くようになるまで追求しなければなりません。これが唯一の出発方法です。しかし、その憎しみに関して患者に罪の意識を感じさせてはなりません。赤ん坊の気持ちとは無関係に、親は赤ん坊の部屋に入る権利があるということを承知しているのと同様に、医者は、自分には病気の中に踏み込む権利があるのだということを確信しなければならないのです。医者は自分が正当なことをしているのだということを知っていなければなりません。
患者は自分の問題に非常に気をつかっている。なぜなら、それは彼を破壊したものだからです。したがって、彼は医者をその問題に巻き込んだことに罪を感じています。患者は、医者もまた押しつぶされてしまうだろうと思っているのです。医者がそこに入り込むのに許可を求めるのは正しくありません。医者は無理矢理入っていかねばならない。そうすれば患者は罪の意識を感じなくてすむのです。つまり彼は、自分としては全力で医者を守ってやろうとしたのだ、と感じることができるのです。医者は、「君がどう思おうと私は入っていく」と自分から言わなければなりません。
打ちひしがれ殺されるということは、素晴らしいことなのです。なぜなら、本当に関心をもち怒らなければ、人は決してそんなことはしないからです。人が相手を殺すのは、相手に生き返ってほしいからであって、死んだままでいてほしくないからです。
愛は最初は不可能です。なぜなら愛は人を絶望的な赤ん坊にしてしまうから。私に必要なものを医者が理解し、与えてくれるだろうということを、絶対的に確信するようになるまでは、患者は安心して愛することはできません。
医者は、彼の憎しみを感じることができるが、それを理解することができ、それによって傷つくことはない、ということを示さなければなりません。自分の病気によって医者が傷つくということは、とても恐ろしいことなのです。
私はあなたの子供であるかのように感じる自信がなかった。そして自分自身をも確信できなかった。私が確信していたことは、「緊張症で妄想症で統合失調症」だということだけだった。私のカルテにそう書かれていたのを見たのです。それは少なくとも実質があり、私にアイデンティティと人格を与えてくれた。(そういう状態からあなたが変わった原因は?)あなたが私に、あなたの子供であるように感じさせてくれ、優しく私のことを思ってくれるだろうと確信したときです。あなたが本当の私を愛することができれば、私にもそれができるのです。私はありのままの自分でいることができたし、称号を必要としませんでした。
私はあなたがそう望んでいたからそうしていただけです。私はあなたが見たいと思うような人間にしかなれなかった。私はあなたの私に対する反応によってしか、自分を現実的なものと感じることができなかった。
ここにおいてわれわれは、統合失調症患者の罪の意識が、自分自身になることを妨げていることを、非常にはっきりと見ることができる。
自律性と独立性を獲得するという単純な行為が、彼にとっては、本来自分のものでないものを我が物と僭称する行為、すなわちギリシア神話のプロメテウスの傲慢という行為なのである。
統合失調症患者にとっては、誰かを愛する〔like〕ことはその人のように〔like〕なることに等しく、その人のようになることは、その人と同じものになることに等しい、したがってアイデンティティは失われる。それゆえ憎んだり憎まれたりすることは、愛したり愛されたりすることに比べれば、アイデンティティの喪失という脅威をあまり感じさせないだろう。
問題はいかに子供が良いか悪いかではなくて、その子供が、自分の行動の主体であるという感覚を発達させているかどうかである。
憎しみは、偽自己-体系の従順さによってのみ表現されるようになるということは、すでに指摘した通りである。