yuhr さんのヨミメモ

『自己と他者』(R・D・レイン) by yuhr

自己と他者
R・D・レイン
出版社: みすず書房   出版日: 1975-09-26   ページ数: 240

われわれはいつも、動機や作因や志向や経験をお互いに帰属させようとし合っている。
これまで述べてきたのとは反対に、もし私があなたを知りたい場合、私があたかも星雲やラットを研究しようとしているかのようにとりかかれば、私のしようとしていることの成功はおぼつかない。あなたは私に向って自分自身の胸の内を明かそうとは思わないであろう。他のいかなることが研究できていようとも、私があなたを知らない限り、私はあなたを研究しているとはいえない。あなたがもし自己隠蔽に長じているなら、あなたの行動だけを詮索することによって私があなたについて多くのことを知るようなことはないと当然確信してよい。自分が関心を持っていることのすべては〈純粋にして簡明な〉行動の研究であるというひとがあるとすれば、彼は人間を研究しているのではない。けれども現在、心理学者の多くは、人間を研究することは科学的に不可能だと、事実上考えているのである。
ある人が他者の経験を研究する場合、直接的には、他者についての自分自身の経験を覚知しうるにすぎない。
これは、私が自分の場合はそうであることを知っているように、他者の行動は、なんらかの形でその他者の経験の函数であるということを前提としている。たとえそれがどんなに条件つきのものであっても、この前提にもとづいてのみ、ひとは、他者の行動を眺める視点から他者の経験に関する推論をあえて行うことができるのである。
人が、他者の行動についての自分の直接的かつ端的な知覚にもとづいて、他者の経験に関して行う推論は、一種の属性付与の行為である。
患者が否認するところの作因、動機、志向、経験を患者の属性として帰属させるばかりではない。そのような単なる帰属を超えて、《無意識》を説明するための力、エネルギー、力動、経済、プロセス、構造といった異常な剝奪を行う。
だが精神分析理論全体が、このような推論の正当性の上によりかかっている。それらが誤ったものであるなら、その上に構築されたすべてのものがその存在理由を失ってしまう。私は、精神分析がこのようなレベルの推論に終るものだといおうとしているのではない。私は、精神分析がそこからはじまらなければ、まったく出発できないであろうといっているのである。
日常の事態とは、ある連鎖的集団の空想体系のなかで、安住しうる境地にとどまっているということである。このことは、一般に〈アイデンティティ〉もしくは〈パーソナリティ〉を持っていると称される。われわれは、われわれがそのなかにあることを決して自覚しない。われわれは脱出することを夢見ることさえ決してない。われわれは、脱出しようとする人々を、たわけもの、悪者、狂者として、大目に見たり罰したり治療したりし、そしてわれわれもまたそうなるに違いないと自分自身に言いきかせる。
安住しえない境地からのがれたいという要求が大きければ大きいほど、そうするチャンスがますます少なくなる。境地が安住しえなければしえないほど、そこからのがれることがますます困難になる。
人々が自分の目をピンで突き刺していると考える人間が、自分の目のなかに突き刺さるピンでロイコトミー〔白質切断術〕をしてもらおうと精神科医のもとにやってくることがある。なぜなら彼は、それが現実だと信じるよりも、自分は気が狂っていると信じた方がまだしもましだから。
〈精神病者たち〉のなかには、精神分析を、彼らがほんとうに考えていることを誰かに話すのに比較的安全な場所だとみる者がいる。彼らはすすんで患者であることを演じようとし、分析者が彼らを〈治癒〉させない限り、分析者に金を払ってことば当て遊びを続けさえする。彼らは、分析者が、快方に向っているように見えない一群の人々をかかえこんでいて、それが彼にとって不利に見えるような場合には、病気がよくなってゆくふりさえ、よろこんでするのである。
彼は、自分が〈ありのままの自分自身、ただの坊や〉であるふりをしようとする。けれども、完璧にそうすることはできない。自分が〈ただの坊や〉であるふりをしようとして失敗する三歳児は、必ず障害をこうむる。両親にその余裕があれば、彼はおそらく精神分析にまわされるだろう。六十三歳の男もまたわざわいなるかな、彼が〈ただの老人〉であるふりをできないならば。
彼女は、自分は結婚していないと想像し、ついで自分は結婚していると想像する。逃避の螺旋形は、どんどん進行する。
彼女は終幕の劇的な袂別をさまざまな形で想像し、その場面を夢中になって想像している最中に自分自身がひどく泣いているのに気づいた。いまのところ想像の段階でしかない状況を自分の心に描いただけで、こんなに激しい感情とほんものの涙がこみあげてくるなんて、いかにもわたしらしいことだと彼女は思った。〈そのときが来たら〉自分はなんにも感じないだろうと、きわめて正確に彼女は予言した。現実の情事の終りは、散文的で退屈なものだった。
彼女は、想像のなかで過去の状況を再び生きたが、それはかつて想像しただけでそれ以上に発展しなかったものであった。回想のなかでは、過去の想像上の状況が、実在のものとなった。
抑うつ的になっている場合のほかは、自己が誠意や誠実を欠いているのを嘆くのは、他者である。彼や彼女の行動がいつわりであったり、芝居がかって大げさであったりすれば、ヒステリー者に特徴的な戦術の症候とみなされる。ヒステリー者は、反対に、自分の感情は正真正銘ほんものだと主張したがる。彼らは非現実的である、と感じるのは、われわれの方である。ヒステリー者は、自殺を図った自分の気持は真剣だったと強調するのに、われわれは、あれは単なる自殺の〈ジェスチャー〉にすぎないという。ヒステリー者は、自分がばらばらになりそうだと訴える。われわれが彼をヒステリー者と呼び分裂病者と呼ばないのは、彼がそんなふりをしたり、そう信じさせようとしている点を除けば、彼はばらばらになりそうにないとまさにわれわれが感じる限りにおいてである。
他者に変化を与えることが勝利なのである。自分に変化を与えることを他者に許せば、敗北である。
ブレイクが、もっとも必要なのは、他者の〈欲求を満たされた顔つき〉だといったとき、彼が指摘したかったのは、もっとも欲求不満をひき起こしやすい経験の一つは、いくら快楽的ではあっても、自分のエネルギーやリビドーを完全に発散させながら、しかも、他者になんら変化を与えない状態である、ということであった。
女性の冷感症は、満足を〈与える〉という勝利のよろこびを男性に許すまいとしての拒絶であることが多い。