yuhr さんのヨミメモ

『特性のない女―女であることの精神分析的素描』(アニー アンジュー) by yuhr


両性具有からの性の分割を方向づけるのは、感覚および幻想である。
羨望と恐怖というもっとも早発性の感情は、女性の性活動の表象に結びついている。それは女性性の蔑視の原因でもあり、また理想化の源でもある。生と死の力を備えた秘密の内部は、全能と迫害の幻想をよび、サディズムとマゾヒズムの源泉となる。
分析者として語ることは、しばしば女性として語るのと同じである。解釈は、その暴力においては男根的だが、他者のことばによる侵入の反響でもある。リビドーの女性的部分を喚起すること。分析者であることはまた、母親と同様に身を引くこと、親密さによって患者を熟成させてきたこの関係を完結させるすべを知ることである。
同じ質問、同じ無知。
女であることがあたかも欠陥や病気や非在への傾向であるかのように。
言葉が物に出合うときの、おそれとおののき。
女性性は、女性性器をもって生まれたという事実のみにあるのではない。それは内部身体空間の諸表象や懐胎の欲望、愛の対象として所有されることの自己愛的快楽に結びついた情動・情緒様態の総体を包括する概念である。
性的アイデンティティは、それがリビドーの宿命なのであれ、あるいは初源の感覚覚知による痕跡なのであれ、身体イメージに基づくものである。
総体的に敏感な身体外皮すら、穿孔されるのではないかとの不安を持つ。
理想の破片、汚穢の断片が混合した、自己のイメージ。
「衣装は仮面です。恥ずかしいほど私によく似合う」。あまりよく似合うので、隠しているものを暴露してしまう——恥を。そして恥の下のもっと奥にある、欲望がたくらむ略奪の企てを。
私たちが一緒に分かちあう苦悩によって残酷に暴かれる、傷つきやすかった時代。首尾よく出産に至るあてもない、罪悪感につきまとわれた快楽。ことばによる懐胎、果てしない自己と他者の想起。
最深の内部から適切なことばが浮上する。表出と無意識の溝を埋める適確なことばが相手になければ、私自身のことばが患者の言語気孔を通って、私から彼に流れる、彼はそれを乳や血や精液にするだろう。ガスにするかもしれない。あるいはじぶんの身体にとり入れたり、老廃物として廃棄したりする他の代謝物質にするだろう。
「言葉は言葉自身とも、その対象物とも一致しない。このずれが同一性の喪失である」。このずれは、ふたつの表皮——触る皮膚と触られる皮膚——の差異のなかにもある。真の一致はない。女性が自分自身と一致するとき——彼女の性器と彼女の内的身体との、つかの間の一致をのぞいては。この性的空間に名前はなく、その体験をあらわす言葉もない……。ただ、自分自身との内的接触、(時々は他者のものである)手との、または欲望としばし一致した他者の性器との内的接触があるだけだ。オルガズム——目には何も映らない。触って、触られるだけ。そして全身体への快感の横溢。
可視の性器はない——ことにそれを持っている女性にとっては。ただ触覚の、触られる感覚の、内的振動の接触があるだけだ。この感覚のベースの上に基本的な内的対象が形成される(エスター・ビック Bick, Esther)が、触角から視覚への移行にともなって、その周囲に、可触であったものにつづいて可視の皮膚外皮が発展しうる。女性はこの不確定な内的対象物を中心として、層状に自己を構成するのである。
対象物構成の最初の形態は、たぶん唇の表面が、初源的関係の悦楽が溶けこんだ口腔に近接していることから誘発される。
目で接触
女児は男児より、視線に結びついた[心的]外傷を受けやすい。成人男子の性器を見ることは、この対象-物体を、現実の肉体においてだけでなく、禁じられた欲望の罪悪感においても受け入れる準備ができていないため、想像空間の乱入によって、身体的不均衡の感情に結びついた迫害恐怖をひきおこすのだ。女児にとって、欲望と結合する視像は、すでに侵入なのである。
視像に犯されたいという欲望
それによって女性が確定されるあの具体的な場所は、内的触覚と不可視の快楽という神秘的特質をもち、象徴と物質が不可分な収斂点として、女性性をさし示している。
象徴化作用とは対象との遭遇の逆であって、感覚的隣接を、情動的、創造的隣接に置き換える。凝視される対象には最小限の感覚的性質のみが残っていて、この対象の不在を悩ましく喚起し、その穴の周縁で自我は、対象の享受もしくは非-在によって消失するのである。対象が作り出すこのような心的葛藤を解決するために、ヒステリー患者のうつろな身体のなかで、象徴が病症と結びつく。正常の経緯においては反対に、失われた身体接触は、ことばに道をひらく。
男性にとっては、子どもに自分の名を与えることだけが、彼が播き、女性が育てた種との縁の糸なのである。
あの滑らかな表面にひとりの女を見るのがこわいのかもしれません。だって実際には私の身体は、偽膜か甲殻に覆われているんですから。
瞼とその機能は、心的表層における自我の外皮を予示している。
女性が一段劣った無力な存在であり、苦痛や男の欲望に屈しているとの確信は、私に言わせれば、「現実否認の一般的傾向に結びついた観念である。この防衛様式は、「破壊欲動が完全に制御されなかった時に現れる、迫害不安と罪悪感を防ぐために」形成される。女性性器と受胎の神秘が男性にひきおこす不安は、女性の性欲を否定する必要や、これを制圧する欲望を生じさせるのである。
恋人が他の女性たちとどんなふうにするか語るのを泣いて聞きながら、それにつけても彼がジョゼットの性器を軽蔑しているのが悲しい。
また、女性のマゾヒスト的態度の構成要素のひとつに、両性具有に結びついた種々の投射的同一化の経路を通じて回帰してくる食人幻想があるのはたしかである。快楽の対象を体内にとどめることは女性的現実である。
好奇心というのは、内的空間が自己の外部にある内容物に対して持つ欲求を前提とするから、それは女性的特質であるといえよう。知を感受する空間は、取りこみたいと思う対象の侵入をうながす。したがって聴覚や視覚には、支配の欲動が働いていると考えられる。求める対象に魅せられた耳や目はおのおのの閉鎖空間にそれを閉じこめるが、同時に、欲望する容器のなかに呑みこまれてしまう。この観点からすれば、ある種の皮膚症状は、ほんとうは他者の視線に侵入されたいのだが、身体の表面だけにおさえておこうとする、無意識的意図の結果と解釈することができる。こうして、メルツァー Melzer, D. が描いた美的オブジェへの質問を再びくり返させるというわけだ——内部はもっと美しいだろうか、と。
「形のシニフィアン」の概念は、私が女性性の特質と考えている開孔部の快楽に、理論的、臨床的説明を与えてくれる。実際、女性のアイデンティティは、その正常な構成においては、男性よりはるかに強く性器化された、皮膚外皮のさまざまな「穴」への備給を前提としている。早発性の感覚記憶が、それらに性感を付与する。鼻・口・耳・目・性器は、そこからエロスが女性のなかに侵入する穴である。この備給の力動成分が子どもに認められるが、その最初の象徴的表象は、平面における境界を示す描線(直線および円)である。
わけのわからない羞恥が隠そうとする穴。
性器のながす涙
しかしこうして空になるのは、わが身を失うような不安だ。対象とともに排出されて。母性とともに自分自身をも抹消して。そこから母親が逃れゆく性器。母性の過剰。自己の流産? 母性の終結のむこうに女がとり残される。
女性は決して何ものも貯溜しない。
女であることに耐えるのは、のちにもはや女でないと泣く前の、おそらくは官能の享受なのである。
乳房のふくらみ始めから閉経まで、月経や妊娠や出産を通して、女性の時間は性的であるが、静的な線状ではなく、反転や変化を伴った発展的な時間である。女性の自己イメージは、女性としての身体構造がもたらす情動経験を重ねる間に、修正、訂正され、変化、変質させられる。
記憶は、女性の身体のなかに生きている。
女性的なものは、その固有の性質においても、その目的やそれに伴う表象においても、母性的なものと同一ではない。
自分が乳房を持つはるか以前に、女児は内なる乳房を楽しむ。
この言語の上での女性性の要求と、避妊法の発達と公認との間には、あきらかな符合がみられる。
受胎の拒否は、なんらかの死をもたらすという意図を秘めている。母性を成就しない女、役に立たない下腹部を持つ女としてのじぶん自身に対して、また、存在を拒否された子に対しても。
したがって、女児のことばは、その特殊な問題性のために、女性身体の隠喩としてあらわれる。ことばが埋めている彼女と聴取者の間の空間は、女性の欲望、すなわち、ごく早期から性的備給をうける内的空間の能記である。女性の言説は、容器/入れ物としての内部の思考を表象し、その点で、男性の男根的言説とは異なっている。しばしば女性性の特徴とされる思考の欠落はむしろその病的形態というべきであろう。
したがって、そういった、ほんのささやかな欲望を表現するのにも、明らかに自我の協力が必要なのである。
それゆえに、この喜びは性的快楽に十分に匹敵しうるものなのである。
女児は、ことばと文字を使って、自分の性的快楽をあらわすことのできる内的機能の能力と喜びを表現する。彼女のことばは欲望の合図である。
女性にとって、子どもが彼女のエディプス的創造能力の完成であるなら、文字も同様である。すなわち、彼女が快感を感じた証しなのだ。
そこで、書く行為は、彼女にとって自慰行為の意味を持つ。彼女が手で描いたかたちは、それをみちびく新しい方法を彼女が発見した快楽のしるしを暗示している。
女性の月経はいかなる場合でも、同じようなエロティックな荷重は持っていない。それどころか、月経はたいてい、内的去勢やむだに終わった潜在能力の死の残滓というつらい意味を持つ。もし、女性がそこになんらかの喜びを見いだすとすれば、それは自分の生殖能力の規則正しい表象という心理的に構成されるものとの関連だけである。
たとえば、手や目での接触は、身体間の直接的な関係であるが、ことばによる、身体の距離を尊重する、接触しない接近ということも可能なのである。
彼が感じたその不在は、すでに彼の自我なのである。
女性の病理学の両極端な例として、私たちはふたつの苦悩の型に出合う。ひとつは、みずからの深い闇に接触しない女性たち、もうひとつは、なんだかわからない暗い闇のようなものがじぶんのなかでどんどん広がっていく女性たちである。前者では、挿入不能、冷感症、子どもの拒否、愛することができないという絶望による障害が起こる。それに対して、もう一方は、愛の追求を超えた官能の追求、快楽を忘れさせる妊娠、あるいは社会的関係に広がる愛欲の激しい誇示、十分に愛されないという絶望が現れる。
分析者は患者との言葉のゲームのなかで自分を失うが、それは患者とともにもっと密度が高く、もっと確実に生きている自分を発見するためなのである。