yuhr さんのヨミメモ

『声の文化と文字の文化』(ウォルター・J. オング) by yuhr

声の文化と文字の文化
ウォルター・J. オング
出版社: 藤原書店   出版日: 1991-10-31   ページ数: 405

書くことによってわれわれは「ことば〔語〕」をモノのようなものと思ってしまう。なぜならわれわれは、ことばというものを、解読されるべきことばを合図する目印のように考えるからである。つまり、われわれは、テクストや本のなかに、そのように書きこまれた「ことば」を見ることができ、それに触れることができるというわけである。〔しかし〕書かれたことばというのは残りかすである。
今日では以前ほど頻繁には用いられなくなっているけれども、過去において、「口承文学〔声デ書カレタモノ〕oral literature」というようなまったくおかしな概念を学者たちは生みだしてきた。今日でも、このまったく形容矛盾の術語はまだ依然として通用している。この術語は、ことばで組織されたものの遺産が書かれたものとはまったく関係のないときですら、そうした遺産を書かれたものの一変種としてしか心に思い描けないわれわれの無能ぶりをいかにもぶざまに示しているのだが、そうしたことを、今やますます敏感に感じとるようになっているはずの学者たちのあいだでさえ、この術語はまだ使われているのである。
書くことは、独占的で〔いわば〕帝国主義的な活動である
口承伝承、あるいは、口頭で演じ語られるものの遺産を、そのもろもろのジャンルやスタイルをひっくるめて「口承文学」と考えるのは、言ってみれば、馬を車輪のない自動車と考えるようなものである。もちろん、だれでも、そのように考えてみることはできる。馬を一度も見たことのない人のために、馬に関する論文を書くことを想像してほしい。その論文は、馬の概念ではなく、読者の直接体験にもとづいて形成された「自動車」の概念ではじまることになる。さらに、馬を論じるときは、いつもそれを「車輪なし自動車」と言うようになる。
生きつづけるためには死ななければならない。
まったく文字を知らなかったときの無垢な人間の意識
かれの思考を支配していた基本的な公理は、ホメロスの詩においては、「語や語形の選択が、(〔文字にたよらず〕口頭で組みたてられる)六脚韻 hexameter の詩行という形態に左右されている」ということだった
そうした声の文化のなかで作品が口頭で組みたてられるしかたは、どのようなしかたであれ文字に書かれることによって作品が組みたてられるしかたとは違うということを鋭く見てとっていた。
パリーの発見は、つぎのように要約することができるだろう。すなわち、ホメロスの詩に特有なほとんどすべての特徴は、口頭で組みたてられるという制作方法によって強いられるエコノミーによるものである、という発見である。
ホメロスがブドウ酒のために用いた形容句 epithet は、韻律的にはみな異なっていて、ある句を使うかどうかは、その句がなにを意味しているかということより、むしろその句が置かれる節の韻律上の必要性によって決定されていた
さて、韻律にしたがって制作する詩人であればだれでも、当然、あれこれの韻律上の必要にのっとって語の選択を決定することになる。しかし、一般に思いこまれてきたことは、韻律的にふさわしいことばは、ひらめくようなほとんど予想できないしかたで、詩人の想像力にいわばおのずからすがたを現すのであって、そうした詩人の想像力は「天才」(すなわち、本質的に説明不可能な能力)の領分に属するものだ、ということである。
一貫してみられることは、「別離、餞別、予測しがたい危険の観念」が一方の木(緑の木)のまわりにあつまり、「合一、返礼、助けあいの観念」が他方の木(乾いた木、切り倒された木)のまわりにあつまる、ということである
一次的な声の文化では、きまり文句的なスタイルという特徴は、詩にかぎらず、多かれ少なかれあらゆる思考や表現の特徴でもある
声の文化のなかで生きる人びとがふつう、そしておそらく、まず例外なしに、ことばには魔術的な力があると見なしている事実は、かれらのことばにたいするつぎのような感覚と、少なくとも無意識下では明らかに結びついている。つまり、ことばとは、かならず話されるものであり、音としてひびくものであり、それゆえ力によって発せられるものだ、という感覚である。
手書き文字や活字の文化のなかで生活している人びとは、名前をレッテルのように考える傾きがあるからである。つまり、名前とは、文字が書かれたり、印刷されたりした札のようなもので、それが命名された事物のうえに想像のうえで貼りつけられている、というように考えてしまうからである。〔しかし〕声の文化のなかで生きる人びとは、名前を札のようなものだとは少しも思っていない。なぜなら、名前が、なにか目に見えるものだということは、かれらには思いもよらないことだからである。
そこには、話の相手が、ほとんど必須である。
答えはただ一つ。記憶できるような思考を思考することである。
記憶をたすけるという必要が、統語法さえも決定するのである
〔声の文化のなかで生きる人びとが〕ことわざやなぞなぞを用いるのは、たんに知識をたくわえておくためだけではなく、相手の関心をことばによる知的な戦いに引きこむためでもある。つまり、ことわざやなぞなぞの一つを口に出すことは、相手に、その上をいくもっとぴったりとした、あるいはそれと矛盾したことわざかなぞなぞを出すようにという挑戦なのである
しだいに退潮し、周辺的なものになっていく。
声の文化や声の文化の影響を残している文化において、闘技的に罵倒したり毒舌を吐いたりすることと裏表の関係にあるのが、くどい賛辞であり、これも、声の文化と関係があるすべてのところで見いだされる。
だが、音のその他の特徴も、声としてのことばのもつ心理的力学を規定し、それに影響をあたえている。そうした特徴のうちでまず第一にあげなければならないのは、音がものの内部に対してもつ独特の関係である。
あるものの物理的な内部を内部としてたしかめるのに、音〔の感覚つまり聴覚〕ほど直接に有効な感覚はない。
深さ〔奥ゆき〕は、目によって知覚されうる。しかし、どんなに十分に知覚されようとも、一連の表面として知覚されているのである。
すべての音は、なんであれ音を出すものの内部構造をとどめている。
視覚は分離し、音は合体させる。視覚においては、見ているものが、見ている対象の外側に、そして、その対象から離れたところに位置づけられているのに対し、音は、聞く者の内部に注ぎ込まれる。
内部性とハーモニーは、人間の意識の特徴である。一人ひとりの意識は、完全に内側に折りたたまれている interiorized〔内面化されている〕。つまり、本人は意識を内側から知ることができるが、内側からそれに直接手を触れることは、本人以外にはだれにもできない。「わたし」と言う人はだれでも、当人以外の他人が「わたし」と言うときに指しているものとは違うものを、そのことばによって指している。わたしにとっての「わたし」は、あなたにとっては「あなた」にすぎない。そして、この「わたし」は、経験のすべてを「一つにして」それ自身のうちに合体する。知識とは、究極においては、分断ではなく統合であり、ハーモニーを求めることである。ハーモニーがなければ、内部の状態、つまりこころは、病んでいるからである。
ものの内部と外部について語るとき、たとえそれが物理的事物の場合であっても、われわれは、自分自身についての自分の感覚に言及しているのである。つまり、わたしはここに、つまり「内部」にいて、他のすべては「外部」にある、という感覚である。
話されることばは、音〔音声〕という物理的な状態においては、人間の内部から生じ、〔それゆえに〕人間どうしをたがいに意識をもった内部、つまり人格 person として現れさせる。そのゆえに、話されることばは、人々を固く結ばれた集団にかたちづくる。一人の話し手が聴衆に話しかけているとき、聴衆は、ふつう、かれらの間で、また、話し手とあいだにおいても、一体となっている。ところが、もし話し手が、手渡した資料を読むようにと聴衆に求め、聴衆の一人ひとりが自分だけの読書の世界に入ると、聴衆の一体性はくずれ、ふたたび口頭での話しがはじまるまではその一体性はもどらない。書くことと印刷とは〔人びとをたがいから〕分離する。読者を表わすことばには、「聴衆 audience」に対応するような集合名詞や集合的な概念がない。
「文字は人を殺し、霊〔つまり、話されることばを運ぶ息——原注〕は人を生かす。」(『コリント人への第二の手紙』第三章六節)
書くことは意識の構造を変える
「コンテクストをもたない」言語(Hirsch 1977, pp. 21-3, 26)とか、「それだけで独立した」話し ‘autonomous’ discourse(Olson 1980a)と呼ばれるものが、書くことによって確立される。
印刷物によって、書くことが人びとのこころに深く内面化されるまでは、人びとは、自分たちの生活の一瞬一瞬が、なんであれ抽象的に計算される時間のようなもののなかに位置づけられているとは思ってもいなかった。
たとえば、このコードを用いていることをバーンスタインが見出した集団は、中等教育 grammer school education も受けていない見習い給仕たちだった。かれらの表現は、きまり文句的であり、思考をつなぎ合わせるにも、注意深く従属文を使うのではなしに、「ある型にしたがってビーズを糸でつなぐように」言うのである
秩序という概念そのものの感覚的な基盤は、かなりの部分、視覚にある
ロクスは、もともと、精神のうちにある「場所」であり、そこに諸観念がたくわえられるところとして、漠然と思い描かれていた。
印刷は、あらゆることばを網羅するような辞書をつくり出し、そして〔それとともに〕、「正しい」言語のための規則をうちたてたいという欲求をつくり出した。
書くこととともに、剽窃へのいきどおりが現れはじめる。
ニュー・クリティシズムは、テクスト芸術における一つひとつの作品の独立 autonomy を強調した。すでに見たように、口頭での発話と対比させて、書かれたものは、「それだけで独立した話し」と呼ばれた。口頭での発話は、けっしてそれだけで独立したものではなく、つねに非言語的な生活のなかに根づいているからである。
『ムウィンド叙事詩』の演じ語りのなかで、カンディ・ルレケは、かれ本人として聴衆に呼びかけるばかりでなく、かれの語りを書きとめている書記たちにもっと速く仕事をしてくれというようなことを、話中の主人公ムウィンドの口で語っている
書くことによってつくりだされる、それだけで独立した発話への感覚
このようにまさに知性が〔知性であるためには〕技術を必要としているということから、意識と外界との関係についてどんなことが言われなければならないのだろうか。
これらの〔書くことと印刷という〕技術なしには、近代の自我の私有化も近代の鋭敏な二重に反省的な自己意識も不可能なのである。
なにをことばで表現するにせよ、わたしは一人ないし複数の他人をすでに「精神のうちに」にもっていなければならない。
コミュニケーションの「メディア」モデルがすすんで受け入れられるということは、書くことによって条件づけられた考えかたがそこにあることを示している。〔なぜなら〕まず第一に、声の文化と比べ、書くことにもとづく文化においては、話しは、とりわけ情報を伝えるものと考えられているからである。〔それに対し〕声の文化においては、話しは、〔情報を伝えるということより〕いっそう、演じ語り指向であり、なにかをだれかに対しておこなうやりかたの一つなのである。第二に、〔話されることばではなく〕書かれたテクストは、一見すると、一方向の情報の通路のように見えるからである。なぜなら、テクストが〔書かれて〕出現するとき、そこにはどんな現実の受け手(読み手や聞き手)もいないからである。しかしながら〔実は〕、話すときにも、また、書くときにも、なんらかの受け手は〔常に〕いなければならない。さもないと、どんなテクストも生みだされることができないだろう。